ネットで情報が手に入る今でも「地球の歩き方」は買った方がいい: sailing dayの海図
以下は「地球の歩き方」を「るるぶ」なり「ことりっぷ」なり、任意の好きな旅行雑誌・本に置き換えても成り立つと思う。
私は今、中国にいる。3ヶ月の研究留学で来日し、修論ともう一つの論文(共著)を書き終え、残すところ1週間となったのだが、「もっと旅行すればよかった」と若干後悔している。
否、正確には「なんでもっと旅行をしなかったのだろう」と不思議に思っている。この3ヶ月の間で旅行したことと言えば研究室のメンバーに杭州の世界遺産・西湖に連れて行ってもらったくらいだ。「連れて行ってもらった」だから、これさえも受け身であり、声かけてくれなかったらマジで3ヶ月研究室に引きこもっているような生活だっただろう。
研究留学生活自体は幸せだった。こんなふうに書くと顰蹙を買うかもしれないが、やっと同じ分野を研究している秀才たちに出会えた。同じ目標に立ち同じ目線で喧々諤々と議論した日々はとても得難いものだった。研究というのは孤独なもの。突き詰め細分化していくほど孤立していく世界の中で、まさに「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」だった。もっとも来たのは友ではなく、我であるが。
さて、なんでもっと旅行をしなかったのだろう。4年前、リトアニアに留学していたころは頻繁に周辺諸国に旅行に出かけていた。今より、勉学的にも金銭的にも余裕があって、初の長期の海外で浮かれ現を抜かしていたから頻繁に旅行に行っていたと結論付けることはできる。しかし、今でも金銭的に余裕がないわけではないし、時間の使い方が下手になっただけで、捻出しようと思えばいくらでもできる(気がする)。
旅になれて刺激が薄れてきたからだろうか。なくはないだろう。第一に中国での長期生活そのものがおっかなびっくりの連続だったから、非日常が日常になり感覚がマヒし、しかし、それさえも慣れたと言える。でも、25の裕福ではない若造が悟れるほど世界は狭くない。
そう。「捻出しようと思えば」と書いたが、捻出しようとしなかった。駆り立てられなかった。行ってみたいところはあったが(桂林)、飛行機の手配や宿の予約が億劫に感じ、心の中で欲望が自然消滅した。欲望は種火で鎮火してしまったのだ。
思い起こすと4年前私は「地球の歩き方」を携えていた。ベッドに寝転がり、適当にページをめくってはプロが書いた文章と綺麗な写真の異国風景に思いを馳せていた。妄想が趣味だった。これって美味しいのかな、こんな絶景を目の前にした時私は何を感じるのだろうか、など際限のない質問を受け取っては答えが出ないもどかしさに、いつしか心は最高潮にファイアになり、当時はビビっていた英語での予約も情熱がサポートしてくれた。
「おれの地球の歩き方」を執筆してやるって本気で思っていた。
ちなみに、「地球の歩き方」は目的地までは潤沢に案内してくれるが、目的地に着いた後はWi-Fi経由の最新のインターネット情報には敵わない。もっと言えば、現地の人の生の情報には歯が立たない。この点をぼくは勘違いした。いつしか英語が不自由でなくなった暁、浅はかにも「地球の歩き方、要らなくね?ネットでいいじゃん。無料だし」と考えるようになっていた。
膨大な情報の海は「地球の歩き方」を飲み込む。「地球の歩き方」にあって、ネットにない情報(英語での情報を含む)はないだろう。その意味では「地球の歩き方、要らなくね?ネットでいいじゃん。無料だし」は正しいと言える。ただし、言わずもがな、ネットでの情報が役に立つとは限らないし、自分が正しくその海を航海できるとも限らない。
「地球の歩き方」はプロが作る。最高な写真に、最低限かつ至高の文章が並ぶ。それら単体の情報だけではなく、そうした情報の順番さえも念入りにプロが計算する。パラパラと偶然めくって目にしたように感じても、その一瞬の眼差しを奪うようにデザインされている。彼らプロにとって我々購入者はお客様であり、この関係がある以上、彼らは手を抜かない。全力で我々の欲望に油を注いでくる。かくして、心のエンジンが稼働する。
多くは書かないがネットでの情報は欲望に油を注ぐというよりは、感情を逆なでしたり、思考を奪ったうえでの衝動を掻き立たせるように感じる。見ていて疲れるのだ。自分の心の舵を自分で握っていないような感じ。
「祭り当日よりも準備の時のほうが案外楽しい」というように、旅についても同じことが言える。限りある予算、時間の中でどう自分、あるいは一緒に行く人を満足させられるかという航海において、これからは燃料補給係はプロに任せたいと思う。sailing dayを楽しむために。
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