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「十人十色」って、もしかしてこういう意味ではないかしら?
「十人十色。
私らしい、私独自の色を探さなきゃ」
黒柿と根岸色の似合う洒落た喫茶店に『推し、燃ゆ』を携え来店したというのに、珈琲をお願いし、本を開こうとしたその瞬間の聞こえてきた会話が、私の思考回路を奪う。大学生というよりはOL という雰囲気が漂う若い二人。アイスコーヒーを両手で持ち、ストローで遊びながら時折上目遣いに相槌を打つ聞き手と、スラッとした長い指で引っ掛けるカップが印象的な話し手。
十人十色。
私らしさ。
私の色。
「あなたの色はなんですか?」という問に果たしてどれだけの人が答えられるだろう。それが、例えば「黒柿色」という答えと「焦げ茶色」ではどれだけ離れていて、その距離にどれだけの意味があるのだろう。「茶色」が好きだから「茶色」と答えたら地味だろうか。馬鹿っぽいだろうか。「栗皮色」と言ったほうが、知的かわいいかしら。
でも、色鉛筆12色に「茶色」はあっても、「栗皮色」はない。「黒柿」も、なんなら「焦げ茶色」もない。
なぜ「十人十色」は「十色」止まりなのだろう。「百人百色(ももいろ)」でもよかったのに。百人規模になれば「百人百様」と色落ちる。それ以上の数になれば「千差万別」とは言うけれど、もはや対象が「人」でない。
「十人十色」。
「考え・好みなどが、人それぞれであること」。
もしかしてだけど、昔、この言葉を使っていた人は「たかだか純粋な個性なんて十色程度」を言いたかったんじゃないかな。現代なら3原色ですべてが表現できることが知られているけど、昔はわからなくて、「だいたい10色!」って。心理学が9なり12なりのパーソナリティパターンで分類するように。
それでも世界は「十色」なんてことはなくて。
人の有り様だって「十色」ってことはない。
もっともっと多彩だ。
「十人十色」って
「十色の十人が集まれば、
世の中を如何様にも彩れる」
こんな意味ではないかしら
こう捉えなおしてみると永久に答えの出ないユニークな「私らしさ、My Color」を追うなんてバカバカしく思えてくる。個人色の強い色なんて、色鉛筆だったらきっと使われない。持っているだけでSNSの自慢にはなるだろうけど、現実世界では高嶺の花として永遠に削られない原石止まり。
様々な人との間で混ざり、潜む無限の色。
1人では成せないスペクトル。
「私の色」なんて、きっと色鉛筆で一番消耗が激しい色に決まってる。それはよく聞く「かっこいいとは言えない」色だけど、ぜんぜん映えないけれど、「黒以外のあなたと私が混ざりあえば、何色にも容易くなれる」色。キャンバスの上でちょっとだけ使われる貴重な色よりも私は、たくさん使われて、たくさん揉まれ練り込まれ、無限の彼方で重宝される、
そんな色がいい。
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![小さなテーブルに花束を/神長広樹](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19651837/profile_e8fd9ffbca3555c517b1b2d767e02633.jpg?width=600&crop=1:1,smart)