Amazarashiを聞いてわかる実存主義哲学(ニーチェ編)
記事「心・技・体のバージョンアップ戦略」の技のバージョンアップ戦略で「Amazarashiを聞いてわかる実存主義哲学」を整理するとお伝えしました。
Amazarashiは私がこよなく愛するロックバンド。菅田将暉や中島美嘉にも楽曲提供をしていて、最近大分有名になりましたが、2010年にリリースされたアルバム「爆弾の作り方」からずっと聴いているので、かれこれ10年来のファンです。どの曲もメッセージ性が高いのですが、実存主義哲学の主張がところどころ反映されており、作曲者の秋田ひろむさんは相当、実存主義の哲学に精通されてると推察されます。
実存主義の哲学者の主張がどのようにAmazarashiの歌詞に反映されているのか考察し、自分自身の実存主義哲学の理解を深め、Amazarashiの良さを語り合える人を増やすことを本記事投稿の目的とします。
◆そもそも、実存主義哲学とは何ぞや?
まず、簡単に実存主義哲学までの流れを説明します。西洋哲学の原点はソクラテス・プラトンが活躍した古代ギリシャ。ギリシャ哲学は自然について理論的に考察した”自然哲学”が主流で、中世は、神は存在するかどうかの議論が主流だった。その後、ルネサンス・宗教改革が起きた後くらいに、絶対的な真理とは何か?を追求したデカルト・カントが近代哲学の扉を開いた。絶対的な真理を求めたものの、戦争はなくならないし、人は幸せになれたのか?といった疑問から、「個人にとっての真理を求める思想」が登場しました。これを、実存主義といいます。
キルケゴール、ニーチェ、サルトル、ヤスパース、ハイデッガー、ショーペンハウアーなどが主な実存主義の哲学者で、それぞれの立場で「個人にとっての真理」を展開しています。
今回はニーチェの主張を題材に、ニーチェの主張が反映されている、Amazarashiの曲を紹介します。
◆ニーチェの主張①「ルサンチマン」
ニーチェは「きれいごと」が大嫌いだった。キリスト教が説く隣人愛は大多数の弱者が強い者に抵抗するための「ルサンチマン(恨み)」であり、人間本来の生を押し殺していると考えた。異端者を躊躇なく火あぶりにしてしまうキリスト教に「神は死んだ」とまで言い切ってしまうニーチェ。ロックの極みですね。
Amazarashiも世間の価値観に疑問を呈する曲がいくつかあり、その最たるものが「多数決」です。次の歌詞は常識的な価値観を転倒させようとする「ルサンチマン」に抗うAmazarashiの主張ととらえたい。
‘’札束の数 名誉の数 勲章の数 ・・・褒められた数 僕らの価値は数字じゃない 自分の評価を人にまかせるわけにはいかない 世界は移りかわる 昨日の価値は今日の無価値‘’
◆ニーチェの主張②「超人」
ルサンチマンや「神は死んだ」だけの主張だとニーチェは有名にはならなかったはず。ニーチェが素晴らしいのは「神が死んだ」あとに「個人はどうすべきか?」ということを哲学していたことだ。批判や否定を繰り返すばかりでは、自身の苦境を乗り越えることはできない。ルサンチマンが人間の本来の生を押し殺してると主張したが、「強くありたい」という「力への意思」こそが人間本来の生の欲望であり、それを求めることが人生の本質だと考えた。そして、「力への意思」のまま赴くまま強くなることを目指す者のことを超人と呼んだのである。超人って、筋肉バキバキの肉体を持ってる人とか、常人には考え付かない発想をもってるクリエイターといった能力をもたないと超人というわけではない。普通の人間の違いは「力への意思を自覚し、それから目を背けない」ただ、これだけである。その違いが生き方への大きな違いを生み出すとニーチェは語る。失敗を恐れてチャレンジしないのはニーチェ的にはNG。一歩踏み出す勇気と、踏み出したら脇目もふらずに、一生懸命取り組むことを推奨している。
この超人メッセージが反映されているAmazarashiの曲はあまたあるが、ここでは楽曲提供している菅田将暉のロングホープフィリアを紹介します。超人メッセージが色濃く反映されているのは次の部分。
‘’遍く挫折に光あれ 成功失敗に意味はないぜ
最終話で笑ったやつへ トロフィーとしてのハッピーエンド
願わなきゃ傷つかなかった 望まなかったら失望もしなかった
それでも手を伸ばすからこその その傷跡をたたえたまえ‘’
◆ニーチェの主張③「運命愛」
いま生きてるこの世界を直視、肯定し、愛し、「これが人生か、ならばもう一度 」と運命を受容することを「運命愛」と定義している。「この素晴らしい人生をもう一度すごしてみたい」と思える人生を歩んでいるか?その問いに「YES」と答えられる自分でありたい。
この運命愛を表現して楽曲は「たられば」。
もしも僕が天才だったら たった一つだけ名作をつくる
死ぬまであそべる金を手にいれて それこそ死ぬまで遊んでくらす
と最初はルサンチマンの塊の「たられば」からはじまるが、ちょっとずつ自分の本質があきらかになっていき、最後に次の「たられば」で締めくくられる。
もしも僕が生まれ変われるなら もう一度だけ僕をやってみる
失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか
まとめ
仏教だと「欲望」があるから苦しく、その欲望を「空」の思想で解き放つことで苦しみから逃れる発想ですが、Amazarashiとニーチェは「欲望」を全面的に肯定し、人生に真っ向勝負します。カッコいい、生き方ですね。
次は別の実存主義哲学者の主張を題材に、Amazarashiの歌詞との関係性をひも解いていこうと思います。
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◆心・技・体のバージョンアップ戦略(5/26投稿)
◆心を軽くする般若心経のすすめ(5/28投稿)