忘れかけた幸せな記憶。
7月21日
今は千葉での撮影から自宅に帰っている途中である、機材の入ったカバンは米俵を運んでいるくらい重い。
1時間程あるので、本を読みながら考え事をしている、やはり移動時間は大切だと感じた、この何もない無駄な時間にこそ余裕が生まれる。
noteを更新していなかった、ここ数ヶ月を思い返している、自分を振り返ることができずにただガムシャラに生きている感覚が強かった。
ずっと都会にいると時間というものが麻痺してくる、例えば「楽しい事は一瞬で終わってしまう」
みたいな事はよくあるだろうが
楽しくないことが長く感じるという訳でもない事に気づいてきたのは最近だ
苦痛でも、退屈でも、時間を長く感じることが出来ないことが増えた。
それは都会にいるせいなのか、それとも大人になったからなのか、時代が進んだからなのか分からない
同じ生活を続けていると、同じ感覚を同じと処理して時間が短く感じる。
時間の感覚は過去の記憶に依存している訳なので記憶が新鮮だったり、衝撃的なものであれば、印象的な記憶になり、時間を感じることが出来る。
何もせずに部屋でダラダラ過ごした1日よりも
新しい街を散歩した方が記憶に残るという事だ
そんな簡単なことでさえ、最近は出来なくなっていた
部屋にいるのが好きという事もあるが、コロナの影響ももちろんある。
月に1回以上行っていたライブも無いわけだし、買い物もネットショッピングで済ませている。
新たな出会いが無い限り、時間はどんどんと加速して進んでゆく
あの映画みたいなことだ
外に出る理由
苦痛でも、退屈でも、時間を長く感じない。
と言ったが、退屈など存在しない事にあまり自覚的では無かった
家の外でもスマホがあるわけで退屈になることは困難である。スマホを捨てない限り退屈を味わう事は不可能な世の中では無いか、と今更ながらに思っている。
では苦痛はどうだ、生活の中にあまり苦痛はない、基本的に苦痛を避けて生きてきている。
もちろん社会的に必要なシチュエーションでの苦痛は甘んじて受け入れるが、環境作りの中で苦痛は徹底的に排除するタイプである。
それはストレスフリーな生活を求めているが故なのだが、それと同時に効率的な生活が生まれてしまうという弊害がある。
苦痛を排除したストレスフリーな生活と
効率的な生活とは話が違うわけだ
前者は望むが、後者は望んでいない。
それはこのnoteや動画内でよく話している
効率性と無駄の話である
Amazonで買い物をすれば楽だが
同時に、買い物に行く楽しみは失っている。
という話だ
これは一つ例えではあるが
普段の行動一つ一つがこれに該当する。
しかし、買い物はAmazonでした方が良いのかもしれないとも思っている。
買い物が部屋で、できるという効率的なものを使わない手は無いはずである。
では、そこで失われた買い物に出かける楽しみ、やそれに類する全ての行為の代わりを考えないといけないという事だ
僕らはAmazonで買い物する事で、買い物に行くはずだった時間を得てるわけで
その時間を何に使うかなのだか、その答えをまだ僕らは持っていない。
ということが問題であり、僕らはそれに自覚的でも無いことに自覚的にならなければならない。
消費において摩擦の大きかった、ショッピングやコンテンツ産業などが、すべてオンライン化して
僕らがお金を使う事がシームレスになってしまった。
つまり、ネットゲームで課金しているかの様にお金を使うことができ、そこにフィジカルの感覚が存在しない。
最近、サウナとかキャンプが流行っているが
買い物以外の外へ出る理由として、とても有益である。
スポーツ観戦、ライブ、祭り、イベントが無いわけだから、外に出る理由をもっと作らないと行けないなぁと感じているし
理由がなくても、外に出てゆきたい。
理由がなくても、外に出て良い。
7月22日
少し前、Instagramの投稿を精査し、ストーリーズのアーカイブを更新しようとしていた。
多分、感覚が少し変わったからだと思う。
記憶や記録の根本は変わらないけど、今の捉え方は変えることができる。
忘れていた些細な記憶、些細な幸せがストーリーズという瞬間的な短い動画に詰め込まれているが
あの記憶の断片が幸せな時間を思い出させて、過去の奥行きを感じる瞬間がある。
たまに振り返り、インスタの投稿を見ると自分の辛い思いでと楽しい思い出が一気に押し寄せて
自分が形成されていることを実感することができる。
フィルムとデジタルの時間
少し前にインスタントカメラが流行っていたが
インスタントカメラやフィルムカメラの良さは現像のスピード感だと思う。
今の時代、Photoshopでいくらでも写真をフィルム風に加工できるわけで画質や見た目の話だけでフィルムを語る事はできない。
フィルムは現像しないとその姿を見ることができない。例えば、iPhoneのカメラで写真を撮るとその瞬間に写真が見える。それだと時間を切り取っている感じがしない、今切り取られたデータである。
あまりにも今と写真がシームレスに繋がっている。
つまり、この話の写真の良さは、僕らの記憶からその時間が消えかけた時にそこ発揮される。少し忘れた頃に現像から上がってきた写真を見ると、その時の時間をまた思い出すことができるのだ
DispoというカメラSNSアプリはその良さをうまく拾っている、誰かに見てもらう為の写真ではなく自分の為の写真を、お互いに共有することができる緩い繋がりのとても優れたSNSだ。
撮った写真が翌日に現像される為、写真を撮り直すことができないし、写真を並べて「これが映えるからこれをアップする」という無駄な時間が存在しない。
そして、写真が更新されるのが前日の写真が残像される朝9時のみなので、他のSNSの様に何度も何度も見たくなる事がない。
あくまでも、好きな瞬間を撮って、それを緩くシェアするという極めて幸福なSNSなのだ。
おわりに
部屋を掃除していたら、ひとつのインスタントカメラが出てきた
何年前のものだろう、
いつのカメラか全然思い出せない。
誰と何を撮ったのか、全然思い出せない。
でも、わざわざカメラを買って撮っているわけだからさぞ幸せな瞬間が詰まっているに違いない
だから、もう少し現像せずに置いておくことにする、何か僕の知らない幸せがそこにあると思うと少しワクワクする。
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