読書まとめ「フーコー入門」

フーコー入門

中山元(なかやまげん)

ちくま新書 (1996年6月)

p.32人間には自然で本質的な特性があり、その特性を実現することが人間の共通の目的であるという考えがあるが、本当に普遍の共通目的があるのだろうか。あると思い込んではいるが、その目的は普遍のものなどではなく、西洋のブルジョア的価値観、すなわち特定の時代の特定の地域に限られた認識なのではないか。

p.43 何を良くないこと、悪いことと考えるかについても普遍の認識ではない。例えば「貧困は悪いこと」という認識も普遍ではない。これは宗教改革(予定説)により労働が救済されることを確認する手段と捉えられるようになったため、労働がうまくできていないことにつながる貧困は非難すべきことと考える道徳的感性が生まれただけである。

p.55 もうひとつ現代では悪とされている「狂気」について。何が狂気であるかも普遍のものではない。何を狂気とするかは社会により異なる。裏を返せば、あることが狂気であると決めるのは社会と言える。ある社会には全く存在しないものは当然狂気と見なされない。その社会システムが生み出しやすいもの、しかし決して主流ではないものこそが狂気である。現代の資本主義社会は分業が基本である。企業の一社員で、初めから最後までひとりで商品をつくっている人は皆無だろう。分業が基本となる基本主義社会システムが産み出しやすい狂気が精神の分裂症といえる。

p.69 歴史には目的があるとするのが歴史主義。これに対し本人が無意識のうちに行動を決めていることがあるとし、決断のむなしさを説くのが構造主義。前者は人間の理性に過度の信頼を寄せ、きちんと考えれば正しい解答が得られるとする。これに対し後者は人間の限界を知ることから始まるが、決して絶望するのではなく、多くの人の目と時間を介して残ったものを暫定的に「真理」に近いものと見なす。保守主義と呼んでもよいものだろう。

p.73 物をどのように認識するかは、その時代のその地域の知の枠組み=エピステーメーにより規定される。認識は普遍のものではなく、ある条件が整ったときにたまたまそのように認識されるにすぎない。「ある条件」を決める要素の中で重要なものは言語体系である。特定の言語体系での認識は、その言語体系ならではの認識であり、普遍なものではない。

p.82 知の枠組み=エピステーメーはある時期に大きく変化することがある。この変化が時代を切断する。中世(ヨーロッパ)のエピステーメーが「類似と徴(しるし)」だったのに対し、17世紀初頭から始まった古典主義時代のエピステーメーは「同一性と相異性」に変化した。後者のエピステーメーは現代にも受け継がれているのだろう。現代でもある物を考察するときにはそのものの特長ではなく、他のものとの違い(差異)で語られるのが一般的である。しかしこれができるには、すべてのものがきちんと分類されていて、注目するものがその中のどのあたりに位置づけられるかがわからないといけない。現代のような情報過多社会ですべての情報のマップを作ることが可能なのか。それがすでに不可能になっているとすると、ものを考える基本スタイルを大きく変えなければいけないのではないか。すでに生活者のエピステーメーは変化しているのに、研究者や企業のエピステーメーがそれに対応していないのかもしれない。完備型のマップをつくろうとして相変わらず情報集めに汗を流しているのかもしれない。

p.128 これまでの議論と同様に、「真理」も絶対的・中立的なものではない。その社会の支配者がどんな価値観を持っているかで変わりうるもの。従って何が価値観かという議論は意味を持たず、誰がその「価値観」を語ったかが決定的に重要である。価値観は初めからそのに存在していたものではなく、誰か(支配者・権力者)が作り上げたもの。

p.144ここで重要なのは、誰かが恣意的に作り上げた真理が、なぜその時代にその社会で普遍的と思われるまでに信じられるようになったのかということ。ひとつは試験。試験は権力者がつくった真理をどの程度理解しているかを測るものであるが、その試験で合格したものは純粋に真理に近づけたと安心する。そしてその後自らが権力者となる。もうひとつはパノプティコン。監視される側の心の中に第二の監視者が生まれる。権力者の目を意識して、自分の中に権力者のつくった真理や道徳を創り上げることで、自分が自由になった気になる。こうして誰かが作り上げた真理が社会に受け入れられるようになっていく。

p.156 もう一歩進むと、監視する側と監視される側という構造が変化する。もともとは監視される側だった人々の間に、お互いを監視しあう網の目が作られていくのだ。自分が権力をつかい、つかわれる社会。このように権力は外からくるのではなく内部から生まれる。日常生活の中の人と人との間に張り巡らされた力の関係。この力関係がすなわち社会の構造である。社会を変えたいのであれば、この力関係の網の目を再編しなければならない。

p.175 これまでの議論からわかるように、権力者は人々をおどして網の目を作ったのではない。むしろ人々の幸福を配慮する権力(生-権力)であるからこそ網の目が形成されたのである。特に現代の国民国家の権力者は、従来の帝国や封建社会違う社会を作るために、自らの正当性を主張できる物語を作る必要があった。その答えが国民の幸福を実現することだった。すまわち国民の幸福(福祉社会)が国家の目的なのではなく、国家の存続が目的で福祉はその手段に過ぎない。もっとも目的と手段が多少違っていてもそれ自体は問題ないのだが、ある社会の人々の幸福を配慮する生-権力の恐ろしさは次のことにある。すなわち人々が網の目をつくり互いに縛りあうことで形成されるその社会の普遍。その普遍から外れる人々は生かさなくてもよいことになってしまうこと。その社会の普遍から外れた「劣ったもの」には厳しい社会。暴力的に厳しくなる社会。これが生-権力の怖さである。そして、国民の福祉を語る穏やかな社会である近代西洋が、同時に悲惨な大規模な破壊行為を行ってしまった由縁でもある。

2012年2月18日


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