お寿司の『わさび巻』の別名が『涙巻』であることを知った新潟・上越の夜

新潟県上越市を訪ね,夜は冷たい雨の中をお寿司を食しに出かけたわけです.わたしはおいしいお寿司が大好きなのですが,逆においしくないお寿司を出されるとしっかり腹を立てるタイプの人種です.
海産物がおいしいとされるこの辺りですので,いやが上にも期待が膨らみます.入ったお店では決して裏切られることはありませんでした.何を握ってもらっても大変に美味ですし,地元の日本酒もよく引き立ててくれますので,すっかり満足していました.

そろそろ最終盤と考え,『わさび巻』を頼んでみますと,初老の大将から,
「強烈なのがいい?」
と,誘惑されます.アホのひとつ返事で,
「はい!」と応えてしまいます.

やがて1本の細巻が6等分に切られたものが置かれます.切り口には鮮やかな黄緑色が覗いています.
何も考えずにひとつ口に入れてみますと,これが『強烈』という言葉を遥かに超えた恐ろしい刺激物だったのでした.
鼻腔の奥から脳までをキリで突き刺された感じです.激烈な刺激に,鼻はもちろん口でも呼吸ができません.少しでも空気が動くと激しくむせますので,口を開けてただ固まっているほかありません.飲み物を口に入れることも,涙を拭うことも,恐くてできません.ただひたすらじっとしているしかないのですが,刺激が収まる気配はまったくなく,その苦境が延々と続きます.
涙をぽろぽろ流しながら,舌でゆっくりと口の中の催涙ガスを押しだし,ご飯を一粒ずつ飲み込みます.この本能的な自衛の動作を何度も何度も繰り返して,徐々に口の中身を減らしていきます.息が苦しいのですが,呼吸をしようとするとやはり激しくむせます.どれぐらいかかったのかわかりませんが,ものすごく長い時間をかけて,ようやく口の中は空になりました.さっそく口から息を深く吸い込み,端麗な日本酒で洗い流します.

まだ五つも残っています.呼吸を荒らげながら,やめようかどうかと迷います.
唐辛子を口に入れますと,その傷みを感じ取った脳が,麻薬物質のβーエンドルフィンとかいうものを出して苦痛をやわらげてくれるそうです.それで逆に気持ちがよくなって幸福感を感じると言います.わさびの場合はどうなのでしょうか.身体のメカニズムとしては同じことが起きるだろうと信じて,勇気を出して二つ目に挑みます.一回目と同様に呼吸を止めて固まったまま,ひたすら耐え忍ぶのですが,いくら待っても幸福感などはまったく現れません.
永遠かと思える時間を経て,ようやく二度目の試練を乗り越えます.それでも意地になってさらなる挑戦に取り組みます.慣れることは全くないまま,同じ地獄の苦行を繰り返します.
第三ラウンドをようやく終えましたものの,意識朦朧で座っているのがやっとの状態です.荒い息を吐きながら敗戦を覚悟したころで,大将から声がかかります.
「そこまでよく食べたね!」
同時に大トロのヘタが数切れ出されます.一緒に食べると楽になるとの変な応援を受け,そこからはその戦法で再開することにします.
これまでの刺激は驚くほどマイルドになり,そこからは一気に戦いきることができました.

こんなに恐ろしいわさび巻は,一体どうやって作ることができるのでしょう.ふつうのものとはどこに違いがあるのか知りたくなり,泣き声で訊いてみました.
「わさびの品種の違いですか? 擦り方の違いですか?」
すると,大将はニタリと笑って実に明解な答えを返されました.
「量だよ!」

ほどなくして,お勘定を済ませてお店を出ました.死地から解放された鼻腔を湿った冷気でいたわります.みぞれの降る中,雁木をたどって歩きます.新潟というのは恐ろしいところだと感じ入りつつ,バーへと向かったのでした.

(ひろかべ)

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