東京・新橋で食した異常な辛さのカレーライスのこと
かつて,東京の虎ノ門というか新橋の西側あたりに頻繁に行くことがありました.目的地の近くに小さいカレー屋さんがあって,そこのカレーが猛烈に辛かったわけです.辛さが売りのカレーは別に珍しくありませんし,わたしも各地でしばしば楽しんできました.しかし,そこのカレーはとにかく異常に辛かったのでした.
店内はカウンターを囲んで5,6席しかなく,ネクタイ姿の人たちが数人掛けておられます.内側には二十歳前後ぐらいの,ちょっとメイドのような服装のウェイトレスさんがひとり,無表情に立っておられます.
わたしは当然のように辛口のカレーライスを注文しましたが,そのおねえさんから,
「うちのカレーはふつうのものでも十分に辛いですがよろしいですかっ!」
とまるでコンピュータが読み上げたような,感情のない一本調子の言葉をぶつけられます.
女性からそんなことを言われて引き下がるわけにはいきません.男という生きものは,こんなちょっとしたプライドを守り続けることで,どうにかぎりぎりに体重を支えて日々を生きているわけです.
「あ,大丈夫っす」
と涼しげに応えておくことになります.
やがてカレーライスの載ったお皿が供されます.スプーンでひとすくいして口に入れた瞬間,直感的に,これは絶対に身体に良くないと確信します.強烈な刺激です.美味しいとか不味いとか,そんな尺度とはまったく無縁の物体です.
ちなみに,ピリ辛の味というものは,味覚ではなく,実は口の中の痛みの感覚なのだそうです.口の中のカプサイシン受容体なるものが痛みのもとを感じ取ると,危険信号が脳に送られ,脳からは鎮痛のためにβエンドルフィンとかいう麻薬物質が提供されるそうです.ピリ辛好きの人は,この麻薬物質にやられているのかもしれませんね.
それにしても,まるで大量の押しピンを口の中に流し込んでいるような痛みです.わたしのβエンドルフィンの防衛力では太刀打ちできません.
―やっぱりやめとけばよかった.せめて辛口は避けておけばよかった
悔恨の念と同時に,続けるか,やめるかで,脳内議場は大混乱です.
―もうやめよう.でもいいのか? おまえはいつも負けてきた.痛い.もうムリ.逃げてばかりの人生… あと一口だけ… 神は耐え得る試練しか… でもさすがにこれは…
そんなふうに苦悩しながらも,無意識のままわずかずつ口に運び続けます.もう何かを食しているという感覚はありません.ただ耐えている… それだけです.
どれぐらいかかったでしょうか,やがてわたしは,すべての固形物を飲み込むことに成功しました.
―勝った… オレはやり遂げた…
人生に何度も感じることのない大きな自信と達成感を噛みしめます.汗がびっしょりです.よろめきつつ,なんとか席を立ちます.
ウェイトレスさんがお皿を下げに来られます.
ここで,にっこり微笑みながら,
「すごいですねぇ!よく召し上がりましたね!」
などと言ってもらえたら,その後の人生はどれほど晴れやかなものになったでしょう.
おねえさんは,人形のような表情で,小さく「フッ…」と鼻から息を吐かれました.
―こいつ,バカじゃないの…
という人形の心の声が,確かに聞こえた気がしました.
店を後にして,みぞおちまで響く痛みに耐えつつ,男ってめんどくさくてバカな生きものだなぁ… と思うと,本当に涙が浮かんできたのでした.
(ひろかべ)
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