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HIZUMI ALIVE(1992~1994)

  世の中がバブル景気に沸く中で、充実した小学生時代を過ごし、卒業式を迎え、地元の公立中学に入学。中学は頭のイイ人、自分よりスポーツが得意な人、不良ぶった連中、身体に障害をもった人、外国のハーフと多様な生徒が集まっていた。
 小学生6年生のバレンタインにチョコをくれた女子と同じクラスになり、隣の席になるという偶然も働いた。彼女は小学生時代一番好きだったのは、中学で難関私立に合格した秀才で、彼とはワタクシも友達だった。彼が公立中学に来ないことで、ワタクシは彼女を意識した。ある日彼女に「どんなタイプの女子が好き?」と聞かれ、彼女のタイプとは違う「おとなしくて清楚な子」と答えたことが彼女を傷つけたと後から知る。友達つてに彼女を含めたグループで当時地元に開館したスケートセンターに行こうと誘われたが、ワタクシは行かなかった。彼女の気持ちはワタクシから離れていった。
 彼女を傷つけたコトも真に受けず、かわいい女の子と席が近くなる女性運があった。ある娘は「腕相撲しよう」と言い、女の子の手をしっかり初めて握った。ある娘はTMNが好きで「小室哲哉に似ている」と言われ仲良くなり、ある娘には祭りで声を掛けられた。 時折優しく声を掛けてくれる1つ上の女子の先輩も居た。ミニバス時代からお姉さんみたいな感じで、男兄弟しか居ない自分にとっては母性溢れるお姉さんだった。
 部活動でもバスケ部に入り、1年生でユニフォームをもらえた。嬉しくて家で鏡の前でユニフォームを着た。3年生には後に名門高校と大学、日本代表、実業団と成功していく先輩が居た。そんな人に練習で1on1を挑み2年生の先輩から「度胸あるな」と言われる根拠のない自信に満ち溢れていた。   バスケ熱は、当時バルセロナ五輪でNBAのスターが集結する初代ドリームチームに熱狂して増々高まった。
 2年生になっても、かわいい女の子と席が近くになり、「髪短くした方がイイよ」と伝え、彼女は野外活動の日に髪を短くしてきて「似合う?」と言い、好意を持ってくれたようだった。しかし彼女も無邪気に傷つけるように繋がるコトはなかった。
 1993年バブル崩壊。この頃から幸せを享受していた陰で潜んでいたヒズミが露出しはじめてきた。
   無邪気に女子と仲良くしていたが、思春期の性への恥ずかしさで、好意をもってくれた女の子の扱い方がわからず、傷つけた結果、その娘達の周りの女子から敵意を持たれ始めた。顔も頬がこけて、変わってきて、「気持ち悪い」と囁かれ始め、バスケ部では同学年のライバル達が力を伸ばし、Bチーム入りを顧問の先生から告げられプライドめいたものが傷ついた。当時女子を取り仕切っていたグループから、「気持ち悪い!調子に乗るな」と陰口を叩かれ、わざと掃除後のワタクシの机の椅子を片付けない嫌がらせも受けた。
 家では父と母の関係が完全に悪化し始め、父に対する母の我慢が限界に達してきたようだった。大好きなバスケでプライドが傷つき好きだった女子との付き合い方がわからなくなり、傷つけた罪悪感で自己嫌悪して、家では両親の不仲がピークに達していた。兄は大学受験で希望の大学に落ちて1浪をして、イライラしていた。世界が音を立てて壊れていく感覚に陥り、学校に行けなくなった。
 中学2年生の10月から、自室から一歩も出ず、カーテンもドアも締め切り、今でいうガチこもりの状態になった。父からは「精神科行け!」と怒鳴られ、家庭の状態はボロボロで、兄からは「こうなったのはお前のせいだ!」と罵られた。毎日昼は罪悪感と喪失感で苦しくてベッドの中に潜り込み、夜中泣いて朝まで苦しんで、朝寝るという昼夜逆転に陥った。3カ月ほど続いただろうか。一時的に気持ちが前向きになっていたのは、ラジオを聴いたり、Jリーグが開幕して、サッカー日本代表が初のワールドカップ出場へ前進していたことだった。
 そんな中で「ドーハの悲劇」が起きた。テレビを見ていて、期待が最後の最後で失望になる虚しさを感じ、ロスタイムでの出来事に手に持っていたリモコンを落とした。
 担任の先生が自宅に届けにきた配布物を母が机に置いて、見ていると「死ね」と落書きしてあった。苦しさを消すように消しゴムで文字を消した。今思えば残しておけば良かった(卑怯な悪意を身に染みて体感した)。
 今では、どうやって極限の状態から抜けたかわからないが、冬休みを経て、1月の三学期から学校におもむろに登校した。
 好意をもってくれた女の子が「好きだったけど今は大嫌い!」と叫んだり、机を話したり、男子から登校拒否野郎と罵られもした。
 バスケ部を辞めようと職員室を訪ね、顧問の先生に伝えようとしたが先生と対面したら言い出せなかった。バスケへの未練は残っていた。
 頑張って三学期を越え、3年生になり、クラス替えがあり、修学旅行にも参加出来て、周りの悪意も薄まっていったようだった。
 何がきっかけだったかわからないほど、二度目の登校拒否は突然だった。覚えているのは前日友達とサッカーをして、オーバーヘッドを決めた翌日だった気がする。回復してきた中で、朝突如学校へ行けなくなった。
 母はワタクシの二度目の登校拒否に動揺して、料理中包丁を足に落とし、大怪我をしたのを覚えている。
母は父と距離を取らなければと危機感を覚えたのか、別居の準備をしだした。経済的にも父が母にお金を渡さないということがあって、友人のつてで働き始めた。しかしワタクシがこんな状態で仕事をクビになり、ベッドの上で寝込んでいるワタクシに「クビになっってしまった」と呟いたときは更に罪悪感に苦しんだ。
  1994年5月頃だっただろうか、父が朝通勤した隙を見て、鶴見の狭いアパートに兄も含め3人で引っ越した。父は嗅ぎつけたように出勤したと思ったら戻ってきて「出ていくのか」と母に言い、会社へ戻った。
 学校への未練は消えかけていて、母が学校と連絡を取り合い学校の状況を聞くことはあったが、電車で通う気力もなく、一回だけ卒業写真を撮りに学校へ行ったが、図書室だけ行き、教室へ入る勇気はなかった。自分が居なくても当たり前のように騒いでいる同級生の声が聞こえ嫌悪感を覚えた。ヒロリと同級生が図書室に顔を見せにきて、1年ぶりに顔を合わせることがあったが、「バスケしたかったな」とヒロリに伝えると険しい顔で「なら来いよ!」と言っているようでショックだった。運動会の前には、「待っています。来てください。女子より」という手紙を担任から渡されたが、都合のイイように扱われている気がして破って捨てた。
 「金八先生第4期」が放送され始め、学校の疑似体験をしているようだった。家から出ず、TVばかり観て、現実逃避している状態だった。
   気がかりだったのは、ジョンを大倉山に置いていかざるをえなかった事だった。父はジョンにノミがついて、足で蹴り飛ばしたりしていたので、どんな仕打ちをされているか心配だった。
  中学の卒業式には当然出なかった。母は出席して電話してきて「職員室だけでも来ない?」と涙ながらに言ってきたが拒否した。バカにするような電話もかかってきた。現実が嫌いで、興味があるのはTVの中だけ。

 今思えばこの時期から「失われた30年」がワタクシ自身にも重なるように過ぎていったようだ


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