HIZUMI ALIVE(1979~1992)
ワタクシは古代都市ポンペイ滅亡から、丁度千年後に福岡で生まれた。
生まれてほどなく両親が地元の福岡から横浜に移住して、それから四十四年間ヨコハマ市民である。
生まれた時の体重は2450g。父はサラリーマンであり、母は専業主婦だった。5歳上の兄がいる四人家族。兄が生まれた頃は団地暮らしだったらしいが、ワタクシが生まれてからは祖父が購入費を負担してくれて、大倉山のマンションに越して、幼少期から中学時代まで過ごすことになる。
父は兄に虐待を繰り返したらしいが、何故かワタクシには甘さがあり暴力を振るわれることはなかった。病弱で高熱を出し、寝込んで父と母と川の字で横になり、回復した時の恍惚感が記憶に残っている。
サラリーマン家庭であったが、ビデオデッキもVHSが発売した当時には家にあり、購入した際には「マクロス愛覚えていますか」が付いていて繰り返し観た記憶がある。
パソコンも早くから家にあり、カセットデッキをハメ、ケーブルで繋いでTVで観ていた。ステレオもあり、幼稚園時代からエレクトーンをYAMAHAの教室で学び、音楽にも触れていた。
記憶力も良かったらしく、ノンタンの本を丸暗記もしていた。
あっちゃんという女の子とも仲良くしていて一緒に遊んでいた。しかし、あっちゃんは小学生に上がる頃引っ越してしまい、仲良くしていた女の子が遠くに行ってしまうという原体験を初めて経験した。あっちゃんとは幼稚園時代、行事でもエレクトーン教室でも、外出でも常に一緒に遊んでいた記憶がある。
小学生に上がる頃、お勉強セットを揃えてランドセルを買ってもらったときの喜びも覚えている。小学生時代は、通学時は集団登校で地域の他の同級生と一緒に登校していた。
1年生までは兄が6年生だったので、兄も一緒に登校していた。祖父も福岡から上京して、運動会や行楽行事に一緒に参加してくれた。2年生になると、兄は中学に入学して、ワタクシの担任は厳しい中年の女性教師となり、給食が食べきれず居残りで食べさせられたりして学校が嫌になった。
祖父が60代の若さで膵臓癌が原因で亡くなったのもこの頃だった。母は父との関係が上手くいかず祖母は母に冷たかったようで酷く混乱し、学校を休み福岡へ飛び、福岡の家で母が病院に通う中、祖母と過ごし、祖父が亡くなって、母が泣きじゃくって祖父の遺体が入った棺桶が玄関から運ばれ、幼いワタクシは「死の意味」もわからず、冷たくなった祖父の遺体の顔を撫でた記憶は強く残っている。
3年生になり美人の河田先生という担任になり、性的な意識というのも芽生えてきて、小川さんという女の子と教室で遊んだりした。リレーの選手にも初めて選ばれ、自己肯定感も生まれ始めていた。
愛犬のジョンがウチにやってきたのもその頃だったろうか。パンフレットを見てこの子がイイと母に言い、「名前どうする?」と言われ、寝ぼけながら何の考えもなくジョンと呟いた。箱の中に小さな身体を囲まれてウチ
にやってきて、部屋に出してチョロチョロ走り回り、かわいくてしょうがなかった。
4年生になり、担任は河田先生のままで、行事も楽しかったが、サエグサという悪い同級生が居て、彼は猫をマンションの高い所から落としたり、包丁で兄弟とケンカしたりするような性格だった。遠足で彼に仲間外れにされて泣いたりしたこともある。
ファミコンを買ってもらったのもその頃だった。初めて買ってもらったソフトは「スパルタンX」だったと思う。ジャッキーチェンに夢中で、カンフーを真似したりした。当時の子供に流行った「スーパーマリオ」も友達
と一緒にプレイした。少年ジャンプにも夢中だった。父は好きなモノは買ってくれることが多く、大してお金持ちでもないが、友達には金持ちだと思われていたのか、自宅に友達が集まることも多かった。
「光GNJI」に憧れ、ローラースケートを買ってもらい走り回っていた。「聖闘士星矢」「魔神英雄伝ワタル」「気まぐれオレンジロード」といったアニメも好きだった。
母とピザ生地を買いに行き、チーズをのせサラミとコーンをトッピングして焼いて食べるのが美味しくて一時嵌ったこともあった。
この頃は荒川さんという女の子が好きだった。隣の席になる幸運もあったが、まったく興味は持たれず、5年生になる前に転校してしまった。
5年生になっても、ゲームに漫画にスポーツにと楽しかった。河田先生は担任から外れてしまったが、リレーの選手には選ばれ続け運動会では花形になって誇らしく、運動会が楽しみだった。幼稚園の頃からサッカーをしていたが、5年生の頃ヒロリという転校生がやってきて、彼は勉強もスポーツも完璧だった。そんな彼から「ミニバスに入らない?」と誘われ、バスケットボールに初めて触れることになる。「SLAMDUNK」が少年ジャンプで連載が始まったのも重なり、当時NBAではマイケルジョーダンのブルズとマジックジョンソンのレイカーズが対戦して、ジョーダンがスターに駆け上がる過渡期であり、夢中になった。
やはり良い事ばかりではない。イシイという男が居て、ヒソヒソと噂話を吹聴され嫌いだった。
6年生になっても学校は楽しかった。5年生の頃には嫌だったサエグサも転校して、逆に転校してきた完璧なヒロリを「師匠」と呼び、ミニバスを通じて仲良くしていた。栄先生という、昔ながらの男っぽい先生にも良くしてもらった。栄先生は悪い事をすると、時には手を上げることもあったが、苦手だった美術で全然作品が作れないときも、一緒に作ってくれて、粘土の銅像やポスターを完成できたときの喜びは今でも覚えている。
バレンタインで初めてチョコをもらい、手紙で告白されたのもこの頃だ。
ミニバスは強いチームではなかったが、上達する喜びを感じながらバスケが大好きになっていった。横浜市のミニバスフェスティバルにもヒロリ(師匠)と選ばれ、横浜文化体育館で試合したりもした。サッカーも同時に少しやり、三ッ沢競技場で試合に出場してリレーの選手として学校の代表で三ッ沢競技場で走ったりもした。ここまでは本当に幸せだったと思う。
ここまで良いように書き連ねたが家庭の状況は良いとは言えなかった。
ピアノは6年間続けたが、まったく上達しなかった。バイエルンを6年間で少し弾けるくらいであった。
運動神経だけは良かったが、マラソンと水泳などの持久力を必要とする競技は苦手だった。水泳は特に嫌いで、水泳の授業のときはプールに入らず見学していた。小学校の最期の水泳の授業で一人学年全員の前で泳がされ、仲の良かった友達に「泳げるよね?」と言われたが、無様な泳ぎをして25mも泳げず、みんなに笑われたのが恥ずかしくて、今でも泳ぐことはトラウマで苦手だ。
兄は中学に入り、ワタクシをかわいげがなかったのか、生意気に思えたのか、兄から殴られたりすることもあった。兄は父から虐待的なことも受けてきたからか、暴力的で壁を殴って穴を開けたり、母を殴ったりもした。
父は酒乱で、酔うと母と喧嘩ばかりしていた。そんな状況で兄がワタクシを庇うように父に反抗したりもした。
サエグサにしてもイシイにしても、嫌いなヤツの家に遊びに行ったりしたし、当時は嫌なコトとも付き合えていた。好きな女の子が離れていくような寂しさは、この頃からあった気がする。
幸福の陰でヒズミが徐々に忍び寄っていた
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