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問題というのは概ねこんな形をしています/二重盲検法、レトリック、そして…

1 このお薬は効くか
薬の効果があるかどうかは実際に投与して調べてみなければ分かりません。つまり試験が必要です。そこで、実施者(評価者でもあるとします)が試験で使う薬を用意し、これを被験者に与えます。

ところが、実施者が「この薬は効果があるはず」と思っていると、隠そうとしてもその心理が言動に表れてきます。それが被験者に影響してしまうのです。また、評価者が試験結果を検討するときにも、上記の心理がデータ解析に影響してしまいます。人間というのは難しいものです。結局、確度の高い試験が成り立たなくなってしまいます。

さて、このときの問題の形は、だいたい以下のようなものでしょう。

①人の手により、人を相手として、試験することが必要である。
②ところが、人相手の場合、人の手により試験をすると、試験結果が正確にでない。
①と②は矛盾衝突してしまう。

「試験」自体に問題が内在しているわけです。

そこで、有名な「二重盲検法(Double Blind Test)」というファンタスティックな解決策が登場しました(三重盲検、四重盲検という言い方もありますが、一般用語としては、二重以上は二重盲検という用語を使っているような気がします)。

二重盲検法については下のサイトを参照くださればと思います。


もちろん、二重盲検法にも限界があります。



2 言葉で言い表せるか、伝えられるか
自身が味わい、感じ、考えたことは、とても言葉では表現し尽くせない、という感慨をもつことは、誰にでもあることではないかと思います。ところが、言葉を使わなければ、到底、微細にわたって描き出すことはできません。

では言葉で頑張って言ってみればいいではないか、としたところで、言葉にしたとたんに、手の指の間から砂が零れていくように、言いたかったこと、伝えたかったことがポロポロと落ちていってしまう。

問題の形はおおむねこんな感じです。

①言い表し、伝えるには、言葉を使うしかない。
②ところが、言葉で言い表し、伝えてみても、それではどうしても言い表せず、伝えきれない。
①と②は矛盾衝突してしまう。

「言葉」自体に問題が内在しているのです。

そこで編み出されたのが「レトリック」です。

レトリックはとくに近代以降は悪口の対象ですが、学べば学ぶほどファンタスティックな知的営為です。

レトリックについては、まずは下の名著を参照くださるとよいかと思います。


当然、レトリックには限界があります。



3 確かめられるものか
いわゆる「実証」的な証拠があるものしか信じないという人もいます。しかし、自分の心臓が動いている理由もわからないのに、常に実証的証拠を求めるのは背理でしょう。

そうはいっても、実証されないものを、どうやって信じたらいいというのでしょうか。権威に従えとでもいうのでしょうか。

実証を求めれば、実証的証拠がないものを無視することになりますが、実証的証拠がないものなど無数にあります。それらをないものとして扱うのであれば、実証を握った人だけが都合よく権勢をふるうことになるでしょう。

以下のように問題の形を捉えることができるでしょう。

①実証されないものを、信じるわけにはいかない。
②しかし、実証されないものを無視することは不合理を生む。
①と②は矛盾衝突している。

「実証」自体に内在している問題なわけです。

そこで、…と言いたいところですが、実はこれには良い解がないとされています(法律の世界という限られた条件のもとでですが有効性を持つものとして、「みなす」という法論理や「推定」規定、「相対効」という法律効果の工夫、「立証責任」というものがありますが)。

みなさま、良い知恵はありますでしょうか。



【雑多メモ】
〇歴史を神なり大宇宙による実験とみなせば、歴史は完全盲検法といえるかもしれません。手塚治虫「火の鳥・未来編」により、そのイメージを持つことができる気がします。

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