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メモ書き M・ポランニー『暗黙知の次元』に寄せて(第Ⅰ章 暗黙知)③近位項体系
[マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫,2003)に必ずしも依拠しない私的メモ書きです。ここでは「近位項・遠位項」について、プロジェクション(投射)論を参照しつつ、「近位項体系」という概念などを導入して私見を交えて整理する]
1 近位項-遠位項は関係的概念である
近位項は独自に近位項として存立しているのではなく、遠位項との関係で、あるものが近位項となる。逆もまた同じである。
例えば、目の前に万年筆があり、これを見ているとする。万年筆に注意を向けてそれを物体として正確に捉えようとする場合、視覚による知覚が近位項となり、万年筆が遠位項となる。
ところが、長年使い慣れて自分になじんでいる万年筆で筆記をする際には、その万年筆はもはや近位項となる潜在的可能性を有している。外出先で初めて示された紙に書こうとする際、その紙質がどのようなものであるか分からないから、どのくらいの筆圧で書けばちょうどよいか、どのくらいの速度で動かせば滲まないか、などを瞬時に把握しなくてはならない。そこで、万年筆のペン先で紙にふれて少し書いてみるであろう。この時には、注意は紙(の質)に向けられているのであるから、万年筆(のペン先)が近位項、紙が遠位項となっている。これにより、紙がざらついていて繊維が密ではないなとか、紙の表面がつるつるでペン先が走りやすいなとか、その紙について「知る」ことができる。
うっかりして万年筆を落としてしまったとする。拾い上げて、どこか不具合がないかと軽く振ってみることもあるだろう。その場合は、もはや注意は万年筆(の普段の状態との差異情報)に向けられているので、万年筆は遠位項にもどり、持って振っている手(の触覚や力覚・力感覚)が近位項となる。
このように、あるものが近位項となるか遠位項となるかは状況により異なり、不動的な性質付けではないことが分かる。
何が近位項となり何が遠位項となるかは文脈によって変化する。
近位項と遠位項の両者は、それぞれ実体として自存しているのではなく、注意が「こちらからあちらへ向かう」という機能的関係で結ばれた2つの「項」にしか過ぎない。
2 自己の拡大、遠位項の近位項化
買って使い始めたばかりの万年筆は、自分とはまだまだ疎遠である。何度も使い、眺め、インクを補充し、いろいろな場面で何十種類もの紙に文字を書くことで、徐々に自分になじんでくる。やがて先ほど例示したように、紙質をつかむために万年筆を使えるようになる。つまり、いままで遠位項でしかなかったものが、近位項となる潜在的可能性を持つようになる。この過程を「遠位項の近位項化」と表現することができるだろう。そしてこれは、自己の拡大であるといえる。
人間が自分の身体以外の様々な事物を、自分の身体の延長物であるかのように扱えるということは、近位項と遠位項が固定されたものではなく、動的に変化することを示している。さらに、こうした変化を何度も経験することを通じて、遠位項として把握されていたものを近位項として機能させ、さらには別の遠位項を把握することも可能になると考えられる。
3 言葉についての近位項-遠位項
(1)近位項体系
上記のことを「言葉」についてみてみると、人間の知性、あるいは学習について、新しい見方ができるようになると思う。なお、ここでいう「言葉」には、言葉で成り立つ論理構造、思考方法なども広く含まれる。
ある分野を新たに学ぶ過程を考えてみる。語学でもよいし、法律学や歴史学、経済学などの学問、ある国や地域のことでもよい。最初は、知らない言葉、概念、専門用語、論理構造ばかりであり、それらは自分とは縁遠く疎遠である。未知の概念や十分に理解していない用語、独特の論理構造、思考様式につまづくので文献もすらすら読めない。しかし、何度も繰り返し学び、教えてもらい、人と議論するなどの行為を繰り返すことで、徐々に自分にとってなじみ深いものとなっていく。特殊だと思っていた用語は自分にとってあたりまえの概念になっていくし、変わった論理構造だなと思っていたのに、いつのまにか自分の思考方法の中心を占めるようになったりする。遠位項の数々が、徐々に近位項化されていくのである。その分野の基本的な本は読めるようになるし、より発展的な論文などの文献も徐々に読めるようになる。当該知識を社会生活に適用したり、世界の諸情勢にあてはめて思考を展開したりすることもできるようになっていく。自己の知性が触れられる世界が広がり、つまりは自己が拡大していく。
他方で、専門用語をあたりまえのように日常的に使っていると、ある時ふと「この言葉の概念は、本当のところは一体何なんだ」と振り返って再検討しようとする場面がでてくることがある。近位項を、いちど突き放して遠位項化して、吟味省察の対象とするのである。こうした吟味省察を経て既存の近位項を整備するという過程を経ると、近位項の強度なり密度があがって、再度遠位項に投射するときには、意味の深まった統合、包括理解が可能となる。
こうした事例では、部分を念入りに吟味するのは、ただそれだけでは意味を破壊する行為なのだろうが、次の段階の統合へ向かうための道しるべとして寄与し、ひいてはより正確で厳密な意味をもたらすのだ。
こうした過程を経て、多くの概念や思考様式が近位項化されたとする。これら近位項の数々が、自身のなかで整然と体系づけられて一定の編成体をつくる場合、これを「近位項体系」と呼ぶことができるであろう(なお、前述のとおり遠位項なしに近位項は成り立たないので、近位項の編成群を抽象的にいう場合は、「近位項として将来使える思考道具編成群としての潜在的近位項体系」とでも名付けるべきであろうが、長くなるので省略)。
何のことはない、その典型は私たちが使っている「日本語」というラングである。小さい頃たどたどしかった日本語運用能力も、成長するにつれ心身になじんで自由自在に使えるようになる。辞書に載っていない言葉を勝手に作り出して友達と軽口をたたくこともできるようになるし、名詞に「る」をつけて勝手に動詞にしたりする。知らなかった難しそうな言葉も、よく知っている言葉で説明してもらえば、瞬時に意味をつかむことだってできる。つまり、使いこなせるように近位項体系が整備されているわけである。また、ときどきふと振り返って、「夢と目標は同じか」とか「運命とは、宿命とは」などと自問したりする。個々の近位項をたまに遠位項化して、吟味省察して再度編成し直すという作業を行っていることになる。
(2)その人独自の近位項体系
上記した近位項体系を編成する過程、近位項を遠位項化して吟味省察する過程の構造から明らかであるが、こうして築き上げられて編成・再編成を繰り返し続けていく近位項体系は、その人独自のものである。
人はときに「私には私のやり方がある」と言ったりするが、それは、「私には私の近位項体系があり、これを遠位項に投射して意味を見いだし、統合的な包括理解をしていく独自の方法がある」と言っているのと同義であるだろう。