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夏目漱石「硝子戸の中」(六)~(八)より/切り結びの諸相

〔夏目漱石「硝子戸の中」『夏目漱石全集10』所収(ちくま文庫,1988)の(六)~(八)について、限られた視点からではありますが読んでみたいと思います〕

夏目漱石『夏目漱石全集10』(ちくま文庫,1988)


1 はじめに

優しい夏目漱石を感じるには、「硝子戸ガラスどうち」を読むとよい。その優しさは、情けなくも口惜しい思いをし言い知れぬ悲しみに晒されながら、現実というカオスに体当たりし続けた漱石が築き上げた、厳しく澄んだ一個の人間の強さゆえと知る。すると私たちは、どこか温かい気持ちになる。



2 ある女からの相談

漱石のもとに一人の女が尋ねて来て、私は死ぬ方がよいかあるいは生きるべきか教えて欲しいと、とんでもない質問を漱石にします。大正3年11月のことです。

彼女の苦しみは7・8年前からの経歴により語られる熱烈な恋愛に起因し、それは癒しがたく見える深い傷をその胸に与えるととに、「美しいもの」(同書207頁)を彼女にもたらした。彼女の苦悩はこの深い傷そのものから生じていると同時に、抱かれた美しい心持が時とともに徐々に薄れていき、漫然と生きる魂の抜け殻のようになっていくことが苦痛で苦痛で恐ろしくてたまらないというのです。委細は記されないのですが、悲痛を極めたその女の話は、漱石を息苦しい気持ちに追い込みます。

私は女が今広い世間せかいの中にたった一人立って、一寸いっすんも身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にもいかないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。

同書204頁

漱石にはしかし返答の糸口がない。が…

「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女はいやな顔もせずに立ち上がった。私はまた「夜がけたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎに下りた。

その時美くしい月が静かなよるを残るくまなく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げたの音はまるで聞こえなかった。私は懐手ふところでをしたまま帽子もかぶらずに、女のあといて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃくして、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。

次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目まじめに尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、またうちの方へ引き返したのである。

同書204-205頁



3 漱石の言葉は何を切り結んだのか

(1)女の諸観念の接続秩序
漱石のたいていの著作を読み、彼を崇拝する一読者でもあるこの女には、胸に刻まれた深い傷があります。その傷は回復し難いものです。しかしその経験ゆえに美しい思い出となって彼女の相貌を輝かせるのですが、この美しい心持も残酷に《時》が侵食して、やがて凡庸な腑抜けになる自分を予期することは何よりも恐ろしいと言います。溌剌たる命であるからこそ傷口から血が迸り出るのであり、燃焼する生命の力感を失えば、それはもはや死ではないか。

「美しいもの」、彼女が宝石のごとく永久に手放さずに抱き続けていたいもの、それが同時に今の彼女を苦しませる手傷てきずそのものなのです。「二つの物は紙の表裏のごとくとうてい引き離せないのである」(同書207頁)。

このまま生きる、それは熱烈たる生命感が鈍磨し冷めていく過程にすぎず、いまの清らからな美しい心さえもゆっくりと消え去っていき、魂の火が消えたまるでゾンビのような人間になっていく、それは死と同義ではないのか。だから、では死ぬべきかでしょうか、と問うというわけです。

このように、彼女の諸観念の接続秩序は出口のない閉じたジレンマを形作っています。彼女にとっては、生きることが自己の魂を殺すことだからです。


(2)漱石の切り結び
上記の事態を前に、当初漱石には言うべき言葉がありません。ひとまず答えて女の顔色をうかがったりしています(同書203頁)。結論めいたことも言えず、時間を理由に帰宅を促し、夜もおそいし送っていくという。漱石の《何とか彼女を励ましたい、が言葉がない。だが、ぎりぎりまでその糸口を探りたい》という真摯な優しさを感じざるを得ない場面です。

道すがら、漱石に一つのヒントが与えられます。

「先生に送っていただいてはもったいのうございます」
「もったいない訳がありません。同じ人間です」

彼女は漱石を尊敬している、が実は漱石を見ていない。自他を切り離し、自分だけの観念秩序の世界を生きているからです(だからジレンマに陥り、行き詰まっている)。そこで「僕をみてごらん。同じだよ、君と同じだよ」と漱石は投げかけるのです。閉じた彼女の観念秩序に、外に開くことができる窓をどうにか作り付けようとする。本当に優しい。

さらにもう一つの糸口を漱石は見いだします。

「先生に送っていただくのは光栄でございます」
「本当に光栄と思いますか」
「思います」
「そんなら死なずに生きていらっしゃい」

「本当に光栄と思いますか」との問いで漱石が彼女に確認したのは、もちろん自分への敬意なんかではなく、《漱石という生きている存在》と《彼女の観念秩序》とが取り結べる箇所、取っ手があるかどうか、ということだったと思います。それさえあれば、両者にロープを渡して結ぶことができる。「そんなら死なずに生きていらっしゃい」という言葉が届く接続線が作れる、ということです。

漱石は知っているのです。彼女は自分を尊敬してくれているが、だからといって自分の言葉が直ちに彼女の心を打ち、彼女の思いを変え、進路を変えるとは到底いえないということを。彼女の心が形作っている諸観念の接続秩序を見抜き、これに窓を作り付け、新たな接続線を取り付けなければ、どんな言葉も届きはしないであろうということを。限りない知性と優しさのみがなせるこうした作業を経て初めて、彼女の「A→B」となる接続秩序は、「A→C」となりうる別様の接続秩序へと諸項の組み換えがなされるのです。

しかも漱石は自分を《ダシ》に使っている、つまり、程度は別にしても自身を彼女に挺しています。対象に客体としてのみ向き合えば、「諸項《を》切り結ぶ」と表現すべきことになるでしょうが、漱石のやり方は、主体たるこちら側の諸項を含めて対象とぶつかっていくがゆえに、まさに「諸項《と》切り結ぶ」と表現すべき作業となっています。確固たる自己を築き上げ、他者へ優しい眼差しを向け得る、真の強さを有する者にしかできない営為であろうと思います。



*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク



【雑多メモ】
・「硝子戸の中」は随筆とされています(新潮文庫)。
・「諸項を切り結ぶ」では、自他の隔絶・断絶を前提にして、対象を客体としてとらえ、その諸項の接続秩序を見抜き組み換え等をはかることを意味するにとどまります。他方で「諸項と切り結ぶ」というのは、対象に照らされた自己をも意識する。自分を構成するもの、とりわけ自分の内部についての諸項の接続秩序を見つめ、その変容を伴う自覚と勇気があります。こうした自己変容と相即不離に、対象たる諸項にはたらきかけ、その再編成を試みることなります。逆説的なのですが、だからこそ確固たる自己をもたない人にはできない作業なのです。
・本note記事の主題に関連したもの。自由独立の精神ゆえにブラック・ジャックのみが見い出せる分節線、これに勇敢にメスを入れ、デビイの顔と人生・人格を切り離し、別異に組み替えることにより、デビイとその母親の生とを再び結びつけて隘路を突破するすがたを追ってみたものです。










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