見出し画像

メモ書き(仮) 現実と虚構 ―概念の整理など①

〔仮に整理するもので、自分の中でもゆれがあり、今後加筆修正等することになる〕


現実、虚構、反現実、仮構現実

「現実」は歴史的にも最重要概念である。いま私はPCのキーボードを叩いている。これは現実である。しかし、この事実はすぐに過去に移行してしまう。過去に移行した事実は「現実」であろうか。もはや見えない。だれにも知覚できない(noteにアップすればnote記事が証拠にはなるが、note記事は「私はPCのキーボードを叩いている」ことそのものではなく、その痕跡である)。私が覚えているだけである。その記憶が消えたら、誰人も知り得ないかもしれない。しかし、過去に移行した、かつての現在の事実は「現実」と呼ぶべきであろうし、それが常識的な言葉遣いであろう。つまり、人が直接知覚できるか否か、完全に立証する証拠があるか否か、で現実かどうかは決まらない、という点が重要となる。ある哲学的立場において、「誰人も見ていない時、月は存在するか」という問いがある。私はこうした問いに関わらない、上記「現実」の捉え方を採用していることになる。つまり答えは、月は存在する。

では大昔の事実はどうか。直近の過去と大昔の過去を区別する合理的理由が見当たらないから、どちらの事実も「現実」と呼ぶべきである。「歴史的事実」といったりするのが、この場合の現実である。

「現実」というものに直接的直截に、簡単に言えば“端的”に反しているのが「反現実」である。例えば、「徳川家康は宇宙旅行を楽しんだ」は過去の事実としてあり得ないので、過去における現実ではない。よって、こうした事柄を「反現実」ということにする。注意すべき区別は、虚構は「反現実」ではない点であろう。夏目漱石の『坊っちゃん』における坊っちゃんは、「虚構」の人物であるが「反現実」ではない。反する現実が対象として存在しないからである。

さて「現実」の対極にあるのは何か。これは難しい。対極といえるかは不明であるが、私としては「虚構(fiction)」を置く。

脇道にそれるが、これらの概念などの整理が難しいのは、一つには、もちろん哲学者や思想家の言葉遣いが確立しておらず(確立がよい事であるという意味合いは含まない)、かつ、それらの人々による概念なり用語の定義なり説明なりが難しいからである。もう一つには、認識的と存在的の混淆が生じやすいからである(これは私自身知らず知らずに陥っているので、こうした混み入った話をするとあらゆるところで間違いをしていることであろう)。認識的(もっといえば方法的であるが)、対象の認識の仕方として方法的二項対立の思考様式をとっているのに、知らず知らずに存在論的二項対立に染まってしまうような場合である。方法的心身二元論と存在論的心身二元論の混淆も同じ(私は基本的に前者に立つが、気づくと後者に立っていたりする)。後に書くかもしれないが、「可能現実」の概念は認識論上は虚構に位置付ければよいと思っているが、存在論上は、「可能現実」の一部は現実であり、他の一部は反現実である。

さて「虚構」とは何か。上記私見からすれば、「虚構」とは「現実」にその対象をもたないもの、ということになる。現実にその対応物を持たないのであって、虚構には虚構なりの対応物、正確には指示対象(レファラン)を持っている、というのが私見である。虚構の場合、指示対象(レファラン)はない、という見解もある。

この定義にたって、さらに混乱する論点を考えよう。ある小説で「愛媛県は四国にある」という文があるとする。前述した観点から、また常識的にも小説は虚構に位置付けられる。小説の中において「愛媛県は四国にある」と言う以上は、やはり虚構と捉えることになる。他方、日常の会話等において「愛媛県は四国にある」と言えば、もちろん現実のことを言っている。つまり、文なり文章にすると同じもの(同じシニフィアン)が、現実にも虚構にもなる。しかし「反現実」にはなり得ない。小説中の「愛媛県は四国にある」は虚構であり、定義上「虚構」は現実に対応物をもたないのであるから、反する現実がないので反現実ではないし、日常会話においての「愛媛県は四国にある」は現実を指し示しているから、現実に即しているのであって反現実ではないことは当然のこととなる。

前述したとおり、虚構は現実にその対応物を持たない。しかし、現実があるから虚構が成り立つ(論理的には当たり前で、生きているから見えている、みたいなもの)。現実における諸項の接続秩序を参照なり参考にすることにより、はじめて虚構を創ることができるからである。

話を「現実」の方に移すと、私見においては現実の中に「仮構現実」をおく(私のヘッポコ語学力では、英語でfiction と区別する表現があるのか分からない)。仮構現実は、認識論上の熟度が増して、もはや存在論上に組み込まれているといってよいもののことである。

G・ベイトソンが提示する「第三の階梯」は、この仮構現実のことを指していると思う。

例えば「法人」や「国家」を考えるとよいと思う。法人はどこにあるか。建物でも構成員でも登記記録でもない。滅失、交替、書き換えしても法人は存在する。一時的に全くこれらがなくなっても、当然に消滅したりはしない。しかし、法人は現実には存在しない、というのはもはや現代に生きる私たちの言葉遣いでは不可能に思う。同時に、そのために、法人というものの深い理解を欠くと、例えば、あたかも一人の人のように扱い、一法人と個人を同一平面で論じるという間違いに陥るなどの恐ろしい事態となる。

他方、仮構現実にあたるものを、「そんなものはフィクションに過ぎない」という颯爽たる言い切りがカッコよく見えるものである。しかし、それによって縛られたり、行動を左右したり、言明の整えていく、という多大な機能を果たしているのに、フィクションに「過ぎない」と矮小化してもはじまらないような気がする。むしろ、慎重に「現実」のうちにあるものと捉え、その内実を単調に捉えず、精密に認識していく、という方向をとるべきように思われる。



【雑多メモ】
〇本note記事で触れた「可能現実」は、「「可能性」(複数形)」(カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』25頁,みすず書房,2003)と同じだと思われる。

いいなと思ったら応援しよう!