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メモ書き M・ポランニー『暗黙知の次元』に寄せて(第Ⅰ章 暗黙知)②近位項-遠位項

マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫,2003)に必ずしも依拠しない私的メモ書きです。ここでは、「近位項・遠位項」について、プロジェクション(投射)論を参照しつつ、私見を交えて整理する]



1 近位項と遠位項、いくつかの前提

・ポランニーがいう、何かを「知っている」というのは、実践的な知識と理論的な知識を二つながら意味しており、両者は互いに他方がなければ存在し得ないもの、と規定されていることをおさえておきたい(同書22頁)。

・「近位」と「遠位」は、解剖学の用語からきている(同書28頁)。

・文献や文脈によって、「近位項(proximal term)」は「第一条件」「近接項」と、「遠位項(distal term)」は「第二条件」「遠隔項」と表記されることがある。

・私たちが世界の意味を知るには、二つの事項が必要であり、私たちにより近しいものが近位項であり、より疎遠なものが遠位項である(同書26-28頁)。

・「暗黙的認識とは、事物と事物の間に近位項-遠位項という投射的関係を樹立し、それによって世界の意味を把握する過程である」(横山拓/鈴木宏昭「プロジェクションと熟達~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~」日本認知科学会第34回大会発表論文集,2017,164-170[165]頁)。

・「近接項とは身体化された知とみなせる。・・・(中略)・・・一方、遠隔項とは近接項の指し示す意味と解釈することができる。そして重要なことは、私たちは受け取った情報を内部で豊かにした近接項を遠隔項に投射することで、物理世界を超えた、意味に彩られた世界を作り出し、そこで、知覚、行動を行っているのである」(鈴木宏昭「プロジェクション科学から見るAIと人の知性」心理学ワールド80号,2018,21-22[21]頁)。



2 近位項と遠位項の諸相

(1)具体例(身体と世界)

重さを知ろうとしてコーヒーカップを持ち上げるとき、感知しているのは目の前にある「そのカップの重さ」であって、その重さを感じとっている「手や腕の力覚(力感覚)」自身は意識に上らない。この場合、知ろうとして主題となっている対象は「コーヒーカップの重さ」であり、これが遠位項である。そして、遠位項への投射関係を樹立している近位項が、「手や腕の力覚(力感覚)」である。近位項で遠位項をつかまえている、把握している、意味化している、統合的な包括理解を行っている、等と表現できる。ただこの例は、近位項と遠位項が非常に近いので、むしろ分かりにくいかもしれない。

そこで次に、コーヒーカップにコーヒーが入っており、視覚を使わずにその量を知ろうとする場合を考えてみる(「重さ」から「量」への翻訳があるが省略)。その人にとって使い慣れたカップである場合、目をつぶってカップを持ち上げても、おおよそどのくらいの量が入っているか知ることができる。この場合、「手や腕の力覚(力感覚)」が近位項であり、「入っているコーヒーの量」が遠位項となる、ということもできるし、「コーヒーカップ」自体がもはやその人にとって新しい近位項となっており、それにより「入っているコーヒーの量」という遠位項を感知している、といってもよい。手になじんだ道具は、その人にとっては拡張された身体であるといえるからだ(プロテニスプレーヤーにとってのラケット、書道家にとっての筆、ブラック・ジャックにとってのメス)。

暗黙的認識において、ある事物に近位項(A)の役割を与えるとき、私たちはそれを自らの身体に取り込む、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、私たちはその事物に内在する(dwell in)ようになる・・・
—同書38頁

しかしこれは考えてみれば不思議である(不思議であると思えないと、近位項・遠位項という概念の意義にはいつまでもたどり着かない)。上記の例の場合、その人は、入っているコーヒーを直接持ったわけではない(当たり前であるが液体なので持てない、ということはここでのポイントではない。直接には重さを知覚していない、知覚しようがない、ということが焦点である)。であるのに、コーヒーの量を(おおよそではあるが)知ることができる。それは、コーヒーカップを通じて、である。そのコーヒーカップは、自身の手や腕を通じて感知している。ところが、コーヒーの量を知ろうとそれに注意を向けている(attend to)ときは、近位項であるコーヒーカップや手や腕の力覚(力感覚)は意識には上がらず注意がそらされている(attend from)(同書27頁参照)。

つまり、私たちは、知っている事項(近位項)から、知らなかった事項、知ろうとする事項(遠位項)をつかまえることができる。そして、つかまえようとしているときには、近位項は意識の外にある。

他方で、「そういえば、いま感じている重さは、コーヒーカップの重さも含んでいるであろうし、手や腕もコーヒーとカップの重さをいま感じている」として、いままで近位項であったものに注意を向け始めるやいなや、それらが突如意識上に現れてきて、遠位項化される。こうした近位項-遠位項関係の流動性にも注意が必要である。

なお念のため確認すると、「知っている」というのは、言葉でその機序や内容を説明できるということではない。

私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。分かり切ったことを言っているようだが、その意味するところを厳密に言うのは容易ではない。
—同書18頁


(2)言語の記号作用(=意味作用)への応用

近位項-遠位項概念は、広い応用範囲を持つ。もっとも重要なのは言語である。

この考え方は人の認識の様々な局面に応用することができる.文章理解で考えてみよう.私たちが文を読むときに直接感じ取れるのは,その文の単語,文法そういったことである.これらは近位項となる.一方,文はある状況,状態を記述している.これが遠位項となる.近位項として触れるもの自体は,それが記述する状況とは何の関係もない.例えば,「太郎は眠くなったのでベッドに向かった」という文を構成するいかなるものも,現実の太郎,ベッド,眠さ,向かうこととは類似していない.しかし私たちは受け取った近位項から,それが記述しようとする状況という遠位項へとプロジェクションを行うのである.そしてこの時に初めて文が理解されたと言える.

鈴木宏昭「ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項」創発と相互作用のために


これは記号作用(=意味作用)の説明として通用する。私たちは、既知である事項(近位項)から、未知である事項(遠位項)をつかもうとする。つかめれば、それは意味化され、全体としての統合的な包括理解が成立する。

視角、聴覚、触覚、味覚、嗅覚など世界を感知する感覚器官に類するように、「言葉は器官」でもある。「言葉とは、意識の表層における三段論法や演繹にもとづく説得の道具だけではなく、人間と万物の交感を可能とする器官でもあるのである」(丸山圭三郎『丸山圭三郎著作集 第Ⅲ巻』6頁(岩波書店,2014))。そうであれば、言葉という近位項を使って、現実世界での事象という遠位項を把握できる、といえる。

言葉についての近位項-遠位項関係、近位項-遠位項過程は、多層的に交錯した局面があり、「〈言葉〉と〈現実世界での事象〉との関係」はほんの一面に過ぎない。例えば、先に引用した「太郎のベッド」にみられる近位項-遠位項過程を正しく位置付けるには「虚投射」という概念を導入する必要がある(「虚投射」については、横山拓/鈴木宏昭「プロジェクションと熟達~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~」日本認知科学会第34回大会発表論文集,2017,164-170[166]頁.私見では文学を読むときに行われているのは虚投射過程である)。




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