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きりぎりすと鈴虫
写真と俳句 その二十五と二十六
おくのほそ道
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左頁から
「此所、太田の神社に詣。実盛の甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社」(以下へ続く)
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「にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり」
むざんやな 甲の下の きりぎりす 松尾芭蕉
元禄二年(1689年)七月二十五日
ここ多太神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦の切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時、源義朝公から拝領したものなのだ。兜は、どう見ても普通の武士のものではない。目庇(まびさし)*から吹返し*まで、菊唐草模様の金をちりばめ、竜頭(たつがしら)*には鍬形*が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲は願状を添えて、この神社へ、これらを奉納した。樋口次郎兼光(中原兼光)が使者となったことなども、目の前の神社の縁起に書いてある。
目庇(まびさし)*:兜のひたいのひさし。
吹返し*は以下のサイトをご覧ください。
竜頭(たつがしら)*:兜の前立物。
鍬形*:兜の目庇の上に立てる、二本の角(つの)のような形の飾り物。
甲冑の歴史 刀剣ワールドより
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実物大復元
斉藤別当実盛公 御兜
木曾義仲公
表指鏑矢根 ほか
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平成26年(2014年) 8月27日 撮影
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平家物語 「実盛」より
樋口次郎、ただ一目見て、
「あな無慚や、斎藤別当で候ひけり」
木曽殿、
「それならば、今は七十にも余り、白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いはいかに」
と宜へば、樋口次郎涙をはらはらと流いて、
「さ候へば、そのやうを申し上げんと仕り候ふが、あまりにあはれで不覚の涙のこぼれ候ふぞや。弓矢取りは、いささかの所でも思ひ出での詞をば、かねて使ひ置くべきで候ひける物かな。斉藤別当、兼光に逢うて常は物語に仕り候ひし。『六十に余って軍の陣へ向かはん時は、鬢鬚を黒う染めて、若やがんと思うなり。その故は、若殿ばらに争ひて先を駆けんもおとなげなし、また、老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」ともうしければ、
「さもあるらん」
とて洗はせて見給へば、白髪にこそなりにけれ。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/07/0801.html
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鈴虫や 童がそっと ヘタ一つ 広在
鈴虫や 衣擦れの様 翅二つ 広在
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#石川県小松市
#多太神社 (さた(ただ)じんじゃ)
#兜
#赤地の錦の直垂
#おくのほそ道
#日本古典籍データセット (国文研等所蔵)
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#芭蕉
#昔の芭蕉の見たキリギリスは今のツヅレサセコオロギだそう