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妄想人間シアター第五話 「赤い葉っぱ 舛添詩織」

 おそらくその頃、別室では、こんなことが起こっていたと推測される。
 吉武青年は、彼独自の感性と文法によってつづられた独り言を、あいかわらず止めどなくつぶやきながら、秋山と巡査が眠っている部屋に入っていった。
「まったく見張りをさせるなんて人使いが荒いよなあ。スミレちゃんはいったい何の生まれ変わりなんだあ? きっと卑弥呼かエリザベス一世の生まれ変わりに違いない。それであんなに偉そうなんだ。それに人をこき使うのがうまい。こきこきこきこきって、こき使うのが本当に上手いんだよなあ。もっともっとこき使ってほしいなあ。こきこきこきこき……」
 吉武はそんなことを小声で言いながら、二人の男を見張った。
 秋山は目を開いたまま、あお向けに横たわっている。血の気の引いた舌が、だらりと横に垂れて、もしかしたら呼吸もしていなかったかもしれないが、吉武は考えてもみない。秋山さんは寝相が悪いなあ、いっしょの部屋じゃなくて良かったなあと、思う程度である。 一方、市川巡査の方といえば、すでに意識を回復していた。
「よう、吉武」
 つぶらな瞳で、もやしのような見張り役を睨んでいる。内あごが紫色に腫れ上がり、とても痛々しい。
「こ、これは巡査。もうお目覚めですか?」
「目が覚めたらいけないのか? お前、見張りのつもりか? そんなことしないでさっさと俺を助けろ。俺は世の中の正義を背負う警察官なのだ。戸川は院内の風紀を乱した。粛清せねばならん」
「だ、だ、だめですよ巡査。今はお芝居の練習中なんです。僕は脚本を書いてないから見張りだけど、それは断筆宣言をしたから仕方ないんです。巡査も脚本を書いていたらよかったのに。そしたら、助けてあげたのになあ。もしかしたら巡査だって、近松門左衛門か夏目漱石の生まれ変わりだったかもしれないし……」
「どうしてもだめか?」
 巡査は真顔になって、もう一度聞いた。
「だ、だめです。それが見張りの使命です」
「そうか」
 巡査は両目を閉じた。瞼を下ろすとまさに悪役顔である。とても警官には見えない。
 生まれつきこんな凶悪な顔で育っていたのなら、気が狂ってもおかしくないかもしれない。
「じゅ、巡査……」
 吉武は、さすがに不憫に感じたのかなにか言おうと口を開いた。
 しかし言葉が用意される前に、巡査はぱちりと瞳を開け、にかっ、と口を広げて笑った。前歯が何本か抜け落ち、いびつな空洞ができている。
「よーしーたーけー」
 うらめしやと言うにはどこか勝ち誇ったような、明るい声質でそう呼び掛けてくる。
「ここに、なあ」
 巡査はごろんとひっくり返り、腕と足にあるロープの結び目を吉武に見せて、ひらひらと動かした。
 そして、次の一言。
「蛇が、いるぞ」
 吉武の顔は、一瞬にして青ざめる。唇が声のない叫びを発し、両足と両腕はすぐにがたがたと震えだした。
「蛇だぞ、蛇」
 巡査は子供でもあやすかのような口調で、スミレに縛られた手首足首を生き物のように揺らす。
 吉武の丸眼鏡は、ただその二点を反射する。
「た、た、た、た――」
 混乱して、青年は近くにおいてあった机の引き出しを抜きまくった。がらがらとこぼれ落ちてきた文具の中からひとつ、光るものが目にとまる。
 それは、理髪店で使われるような、細長い、銀色のハサミだ。
 慌ててそれを掴んだ吉武は、もじゃもじゃ頭をぐらぐらと左右に振りながら、巡査に向かって走った。
 そして乱暴にそのハサミを使って、巡査の足と手にまとわりつく二匹の蛇を刻み始めた。

          *
 
「いやあ先生、それならそうと早く言ってくれないと」
 さきほどまでと態度を百八十度変えて、平は急にぺこぺこと頭を下げだした。
「奥さんと息子さんがいるならそう言ってくれなくちゃ。そしたら、俺も変な誤解をせずにすんだのに」
 初めて笑顔を見せた平の両頬には、愛嬌のあるえくぼができた。私は目を丸くして、そのえくぼを見つめる。
 彼の言い分によれば、家族がいるのならあいつらの仲間なわけがない、ということだった。妻、詩織と一人息子の貴史を紹介したことよって、私への彼の疑いは、きれいさっぱりとなくなってしまったようである。
 そうか、家族がいるということが、彼にとって唯一の真実を見極めるすべなのだ。
 よく考えれば彼の脚本の中にヒントが隠されていた。冷静に対応していれば見抜けていたかもしれない。
 とにかく、秋山のときほど混乱せずに場が治まったので、私はひとまず安心した。
 ここまでは多少戸惑い、失敗もあったが、妻と息子が訪れたのだ。ここからを、文字通り見せ所にしなくてはいけない。
 そう思って私は、座席につくようみなを促した。だが、スミレだけは席に着こうとしない。妻の顔をしげしげと見つめている。
 詩織は目を伏せながら、ぺこりと、彼女に向かってお辞儀をした。
「ふーん……けっこう美人ねえ」
「図にのるから褒めないでくれ。それに戸川君ほどじゃないさ」
 それは本音だったが、やはり妻が褒められたことが内心嬉しかったので、私の顔は自然とほころんだ。
 詩織は色白でほっそりとし、目鼻立ちの一つ一つもあっさりとしている。演劇部時代の二つ後輩で、七歳の子供がいるわりには、肌のきめも細かい。
 スミレのような華やかさはまるでないが、むしろそれが長所となっている。夫の口から言うのもなんだが、控え目で慎み深い、典型的な日本美人と言って良いと思う。
 続いてスミレは、目線を少し下げ、貴史を見る。
 妻に手を引かれている貴史は、今年小学校に入学したばかりで、非常に無口な子だった。外見だけでも明るくすれば良いものを、今は黒の半袖シャツに、青と黄色のチェックの半ズボンといった格好をさせられている。
 乳児の頃から表情も乏しく、わんぱく盛りな年頃なのにあまり友達も少ないようで、父親の私としてもとても心配している。妻に教育を一任したのが間違いだったと思っているが、今となっては始まらない。私自身、昔から子供の相手は苦手だった。
 愛想のない顔をして、妻のスカートを握りしめて立っている。
 妻は、白のブラウスに紺のスカートを穿いてきていた。私はそれが少し気になった。
「それより早く続きを始めようか。今日は妻には演技の見本をやってもらおうと思って来てもらったんだ。これでも彼女は、学生時代には演技派で通っていたんだよ。でもまあ、それはまた今度にするか。今日は君たちの作品を最後まで見ていくことにしよう。じゃあ、あと残っているのは川野君と戸川君だね。どちらが先にする?」
「ちょっと待ちなさいよ」
 スミレはなにやら不審そうな目で、ずっと詩織と貴史を眺めていたのだが、そう言ってつかつかと二人に歩み寄って行った。
 貴史は、体ごと詩織の後ろに回り込もうとする。その襟首を、スミレが掴む。
「ちょ、ちょっと、あなたなにを?」
 詩織が、貴史を掴んだスミレの腕を、掴む。
「手を放してくれませんか?」
 詩織は精一杯、柔らかく言ったつもりのようだったが、スミレの返事は冷たかった。
「あんたこそ、その手を放しなさいよ」
 明らかに、憤りの込められた口調である。
 詩織はいつもおっとりとしていて、綿で包んだような柔らかい喋り方をする。穏やかな性格なのだ。大男に平然とけりを食らわせるようなスミレに、対抗できるわけがない。
「と、突然なんなんですか、あなたは? 貴史に触らないで下さい」
 息子に危険が及ぶと感じたからだろう。それでも詩織は必死に食い下がる。
「うるさいわね、いいから見てなさい!」
 しかし案の定、冷たい叱責の声を受けて、詩織はびくりと青ざめ、掴んでいたスミレの腕を放した。
 スミレは強引に、貴史の体を自分の方へと引き寄せる。
「戸川君、いったい君は何を……?」
 私の心の奥に、得体のしれない不安感が込み上げてきた。
 貴史は一言も喋らない。表情はほとんどない。
 スミレは貴史の肩をさらに引っ張り、数歩下がる。
「私の目はごまかせないわよ。あんた達、息子の体をよく見てごらんなさい」
 そう言って、貴史の着ていた黒いシャツを、一気に頭から引き抜いた。
 はじけたボタンが私の足下にまで転がってくる。
 さらし者のように、シャツに絡み取られた両腕を頭の上にとられ、半裸にされた貴史は、そうされて初めて怯えた子供らしい目をみせた。
 スミレは、私と詩織を交互に睨む。
 私の目は、貴史のむくんだ幼い体に吸いよせられる。息子の体には、無数の赤黒い斑点が散らばっている。
 それはいくつもの小さな痣だった。
 一つ一つはそんなにひどいものではないが、妻に似たみずみずしい肌の上に、腐った花びらの色をしたものが、まばらに浮いている。特にへその回りに集中していた。
「……こ、これは?」
 私は愕然として、詩織を見た。
 彼女は私の視線に気づいて、顔を背ける。
 代わりにスミレが答える。
「どうやら折檻された跡のようだわねえ……自分の息子の体にこんな痣をつけておいて、あんたらよく芝居だ演劇だなんてやってられるわねえ。それでも親?」
「わ、私は知らなかったんだ。貴史のことは全部妻に任せっきりだったから。詩織、いったいどういうことなんだ? まさかお前が? そうじゃないよな? おとなしいお前がこんなことできるわけがない。こんな、こんなひどいこと」
 そこまで言ったとき、私の頭に、前々からかびのようにこびりついていたある考えが、不意に首をもたげた。
「待てよ。そうか、わかったぞ! あいつだな。貴史の担任の、あの教師が貴史に体罰を与えたんだな? そうなんだろ、詩織?」
 詩織は私の視線を避けたまま、なにも答えない。冷たい能面のように、取り澄ました顔をしている。
 その顔を見て、私に芽生えた不安感は、一気に恐怖へと変わりつつあった。
 はたして今の詩織は、私の知っているどんな表情もしてないのだ。
 まるで別人のように見える。
「本当にそうなのか? なぜはっきり言わない? まさかお前、あの教師をかばっているのか?」
 やはり詩織はなに一つ答えない。私はそれを肯定だと受け取った。
「そうか。前から怪しいとは思っていたが、お前やっぱりあの男と。俺の知らないうちに、密かに二人で会っていたんだな。くそう、くそう、俺の見てない間に、あんな中年親父と乳繰り合いやがって。今日だって久し振りに俺が外に出るもんだから、あいつと会うつもりだったんだろう。くそう。俺が気づかないとでも思っていたのか? だからここに呼んだんだぞ」
 動揺を隠せないままに、私はつい言わなくてもいいことまで口に出してしまった。
 詩織はぐっと下唇を噛み、腹立たしそうな、それでいてどこか悲しげな目をして、白い壁の方を見つめている。
「なんとか言えよ、詩織」
 私は恐怖で打ちのめされてしまいそうだった。背筋を氷の指でなぞられたように、首の後ろから寒気を覚える。
「ねえ、僕。そのお腹の傷、だれにされたの? お姉さんに言ってみなさい」
 そんな、意思の疎通がうまくできていない私たち夫婦にあきれたのか、スミレは腰をかがめて、貴史に尋ねる。
「大丈夫。なにも心配しなくてもいいのよ。もしここにその犯人がいたとしても、お姉さんが守ってあげるわ。お姉さんはねえ、こう見えてもウルトラマンよりも強いの」
 貴史はなにも答えられない。潤んだまぶたを固め、震える唇を閉じ、必死に嗚咽をこらえている様子だ。
 スミレはその白い指を、貴史の幼い喉に添えて、優しく撫でる。
「僕、泣いちゃあだめよ。泣いたってなにも変わりはしないの。そのお腹の傷を増やすだけ。痣だらけの泣き虫の弱虫なんて、お姉さん大っ嫌いよ。その代わり、いま泣くのを我慢して、その傷を誰につけられたのか言えたのなら、僕はとても勇気のある子だわ。お姉さん、僕のこと好きになっちゃうなあ」
 私に迫ったときのように甘く、とろけるような声で、貴史にも囁く。
「さあ、思い切って言ってごらんなさい。その傷を付けたのは誰? お父さん? お母さん? それとも、僕のお父さんが言うように、学校の先生?」
 七歳の子供にも通じるほど、スミレの色気が現実離れしているせいなのか、それとも単なる親子の血筋なのか、貴史の顔から序々に硬さが取れていった。
 そして、ぽつりとつぶやく。
「……お母さん」
 怯えた七歳の顔である。
 そうやって感情がついてみると、我が子ながらなんてかわいい顔をしているんだろう。禍々しく付けられた濁った色の痣だけが、やけに不釣り合いにみえる。
「母さんに、いつも車の中で、お腹をつままれていたの」
 スミレの瞳が、すうと動き、横目で詩織に固定される。
「そ、そんな……う、嘘だろう?」
 私は、動揺を隠せない。
 この場面でなにか言うべきなのは、あきらかに私だった。
 しかしなにも言葉を継ぐことができない。
 しばらく沈黙があった。
 その沈黙に耐えられなくなったのか、やがて詩織は毅然と視線を私に向けた。
「――そうよ! 私よ、私が貴史を傷つけたのよ! 悪い?」
 いきなり、角のように両眉をつり上げ、まるで般若のような形相で、彼女はそう言い放った。とても詩織とは思えない。私は夢でも見ているかのような、倒錯感に襲われる。
 現実でこんなことが起こるはずがない。
「でも、あなたに文句を言われる筋合いはないと思うわ。そもそもあなたのせいなんだから。あなたが働かないせいで、私がどんなに苦労をしたと思っているの? そのことを少しでも考えたことがあのる? パート勤めをしたせいで、私が義母さまにどんなに嫌味を言われたことか! 家事はうまくできないだ、子供の世話はしないだ、親戚への対応はうまくないだで、それこそひどい言われようだったんだから。そしてあなた自身も両親方に加勢して、私のことを罵ったわ。そんなこともできないのかお前は! 妻らしく、母親らしくしろって! あなたはどうなの? 少しは夫らしいことを、父親らしいことをしてきたの? いつも家でごろごろして、ばかばかしい夢ばかり語って! 全然していないじゃない! 私はねえ、お義母様やあなたにそう言われるたびに、決まって貴史を連れて、車で外に出かけたの。人気のない道路で止まっては、窓を閉め切り、貴史のお腹を思いっ切りつねったわ。そしたら気分がすうっとした。貴史が泣き出したら、うるさいって怒鳴ってまたつねったわ。また気分がすうっとした。何度も何度も私の気がすむまでそうやって貴史の体を虐めたわ。あなたやお義母様の血を引いてるかと思うと憎らしくなって、殺してしまおうかと思ったこともあったわ。全部あなたのせいよ! あなたのせいなの! あなたのせいで私はずっと、家庭の中で本当の自分ではない自分を演じ続けなければならなかった。そしてその鬱憤は、私の近くにいる中で唯一私よりか弱い存在、貴史でしか晴らせなかった。あなたのせいで、私はいつのまにか自分の息子を愛することでさえできなくなってしまっていたのよ!」
 途中で、詩織は大粒の涙をぼろぼろと落とした。それでも一息での台詞だった。
 私は、寒気が一瞬にしてに引いていき、逆に、喉元から熱い感情が込み上げてくるがわかった。
 その感情にまかすままに、靴音を高鳴らしながら、詩織の前に移動する。
 そして、詩織の頬に、思い切り平手打ちを与えた。ばしっと肉の弾ける音がして、彼女の頬を伝っていた涙が、飛沫を上げた。
「ここまで馬鹿と思わなかった! お前、こんなところにまできて俺に恥をかかすなよ! もういい、帰れ。お前なんか呼んだのが間違いだった」
「いつもそう! あなたはいつもそうやって、最後には私のことを殴るのよ。それがどんなに私をみじめにするか、あなたにはわからないの!」
「なっ……!」
 殴ればいつも目を伏せてごめんなさいと謝っていたはずの妻が、今日は果敢にも言い返してきた。私は口ごもった。
 その間を逃さずに、詩織は涙声で叫ぶ。
「亭主関白っていうのはねえ、経済力や家族への愛があってこそ成り立つものなのよ。あなたのはただの空威張り! あなたのプライドには根拠なんてなにもない! ただの見せかけ! 見栄! 甘え! 劣等感の裏返し!」
 私はなにがなんなのかわからなくなっていた。
 また患者たちの脚本を読まされたような、現実と妄想の境目にいる気分がした。
 これは現実なのだろうか。それとも患者たちの脚本に感化されて、私は白日夢でも見ているのだろうか。ここは本当に精神病院の病棟なのだろうか。もしかしたら、私はまだ、自分の家の蒲団の中で、うだうだとまどろんでいるだけじゃないのか。
 私の思考は、汚れを洗い落とせないポンコツの洗濯機のように、ぐるぐると渦を巻いて定まらない。
「あんたらさあ」
 そこへ、スミレが冷めた一言を告げた。
「二人とも、自分のことばっかりねえ」
 貴史に服を着せてやり、軽くほっぺにキスをあげてから、彼女は私たち二人に向かって腕を組む。
「なににしてもさあ、奥さん。責任を転嫁するのは良くないよ。そりゃあ、確かに旦那側の家族にも落ち度があったかもしれない。でもねえ、旦那が悪いなら旦那に言えばいい。姑が悪いなら姑に言えばいい。子供に当たる必要はないでしょう? あんた、自分の気持ちを考えてほしいくせに、子供の気持ちは考えていないじゃない。妻である前に、女である前に、人でありたかったなら、そう言えば良かった。そう行動すれば良かった」
「だから、今、そうしたのよ」
「今じゃあ、もう遅いの。あなたは自分の不満のはけ口として、罪もない息子を傷つけた。あなたは息子への愛を失った。同様に――」
 ちらりと、スミレは貴史に目を移す。
「この子も、母への愛を失ったのよ」
 詩織は口を開いたが、なにも言い返すことはできなかった。最後の一言がよほどショックだったのだろう、わなわなと唇を震わせ、再びぼろぼろと涙を零した。
「それから、枡添先生。先生もいっしょ、奥さんと同じ。奥さんはただ、先生が奥さんにしていたことを、子供にしていただけなんだから。奥さんが子供を傷つけたのは奥さんに責任があるけれども、先生が奥さんを殴ったのは先生の責任よ。責める権利はないわ。それより二人でもっと話し合った方がいいんじゃない? お互いのことだけじゃなく、子供の将来のこととかさあ」
 私もなにも言えなかった。ぐさりと、心に突き刺さるものがあった。
 スミレは、うふふと上目遣いに笑う。
「今夜は二人できちんとベッドの中でまぐわって、仲直りをするのね。なんならそのコツ、教えてあげてもいいわよ」
 なごますつもりでそう言ったのだろうが、私は逆に抵抗を覚える。
 詩織が貴史の担任と浮気をしているかもしれない。その疑いは、まだ消えてはいなかった。
 スミレの言うように、貴史の痣の点ではお互い歩み寄る必要があるかもしれないが、教師のことはなにも解決していないのだ。
 そのことをどう言葉にするべきか、私は少し迷った。しかしここでこれ以上触れることでもないように思える。
 そのとき、半開きのドアが、激しく蹴破られた。
「戸川、貴様さっきはよくもやってくれたなあ」
 市川巡査が、怒気に顔をほてらせて、部屋の中に押し入ってきた。手首に結ばれていたはずのロープはそこにはなく、代わりに幾筋かの細い血が滴っている。
 それから数秒の間は、まさに目まぐるしく、私はほとんど冷静に動くことができなかった。ただ本能によって、瞳が見たままを受け入れ、体が動くままに行動するだけだった。
 巡査は、獰猛な獣のように暴れ回った。
 まず、川野が殴られた。続いて平が、鴻池が殴られた。
 私は、必死に詩織と貴史をかばおうと両手を広げたが、間に合わなかった。詩織は巡査に背中から蹴りを入れられ、飛ぶように床に叩きつけられた。
 それを見送ったあと、私も首筋にひどい激痛を覚えて、視界が真っ暗になった。意識もどこかへと飛んだ。
 巡査がスミレを罵る言葉がうっすらと聞こえていたが、それからしばらくの時間、私にははっきりとした記憶が残っていない。

 おそらくそれは、夢なのだと思う。
 あるいは、意識は朦朧としていたものの、目だけは開いて見ていた光景に、私自身の願望が入り交じったものだったのだろう。
 そこには、もう一人の私がいた。
 もう一人の私が、巡査とわたり合っている。
 それこそ怪物のように両手を広げて襲いかかってくる巡査の攻撃を、もう一人の私は軽やかにかわしている。
 そして巡査の首に、綺麗な弧を描く、鮮やかな回し蹴りを決める。
 巡査は、一瞬にして崩れ落ちる。
 もう一人の私はそれを見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
 圧倒的な強さと自信に満ちている。
 私が持っていないものをすべて持っている、もう一人の私。
 私は彼を、歓喜と羨望の眼差しとをもって眺めている。
 しかしやはりそれは、戸川スミレなのだろう。
 おそらく私は、彼女の活躍に自分の姿を投影しているだけなのだ。
 本当の私は、もろいガラスのような心の持ち主だ。夢という空気の詰まった、中心のない張りぼての人形を、ただ壊さぬよう過保護に保ち続けていただけに過ぎない。
 妻の言う通りだ。私のプライドに根拠などありはしない。逆に、根拠のなさ、自信のなさを、プライドのような見せかけで隠していただけなのだ。
 しかも私はそのことを自覚していなかった。自分自身を勘違いしながら、生きてきた。
 私が思っている私と、妻が見ている私。そのズレが、二人の心に亀裂をつくったのだろう。
 私は思う。
 なんとかその修復をしなければならない。
 そうすれば、きっと何もかも元通りになる。
 そのはずだ。
 うつらうつらと、もう一人の自分の勇ましい姿を見ながら、私はそんなことを考えている。

 意識が戻ったとき、私は座椅子に座らされていた。
「大丈夫?」
 スミレの黒曜石のごとき瞳が、私を覗きこんでいる。
 平や川野は顔を腫らし、鴻池にいたっては鼻から血を流しているが、さすがにスミレは無傷だった。汗一つすらかいていない。
 ぼんやりとしていた頭に、次第に状況が飲み込めてきて、私は慌てて妻と息子の姿を探した。
 一歩離れたところで、彼らは私のことをじっと見つめている。
 ぱっと見たところ、ケガをしている様子はない。私は取りあえずほっとした。
「よく二人を守ったわね、少しはお父さんらしいところが見せられたじゃない」
 スミレは、長い髪をかき上げながらそう笑った。
 私が二人をかばおうと動いたことに対しての言葉だろうが、実際、巡査を倒したのはスミレである。私は情けなく気を失っただけだ。
 しかしなにも言い返すことはしなかった。
 スミレが私の顔を立ててくれたことが、少し嬉かった。
 それから、私は詩織と貴史を連れて別室に移り、三人だけにしてもらった。
 詩織は静かにうつむいていた。とてもついさきほど激昂した女とは思えない。細身の体がさらに痩せ細って見える。
 もしかしたら戸川スミレなどより詩織の方が、この病院で療養するべきなのかもしれない。詩織のあまりの変貌ぶりに、私はそんなことを考えた。
 長いあいだ彼女は、ふがいない亭主によって、実の息子さえ虐待するほどに精神的苦痛を受け続けていたのだ。私の気づかないうちに、正気と狂気の境目へ、ひとり寂しく歩み寄っていたのだ。
 私はもう帰って休むようにと、やさしく妻をなだめた。詩織はやはり一言も喋らずに、黙ってうつむいたままだった。
 七年のあいだに広がっていった亀裂は、そうやすやすと塞がるものではないらしい。
 私の言葉を聞き終えると、詩織はさよならも言わずに貴史の手を引いて、とぼとぼと廊下へ出て行こうとした。
 そんな妻子の背中を見ていると、私は急に激しい虚しさに襲われ、泣きそうになる。
 胸がえぐれそうな、耐え難い自己嫌悪――。
 部屋を出る間際に、貴史がつぶやいた一言が、せめてもの救いだった。
「僕ねえ、お母さんのこと嫌ってなんかないよ。お母さんが僕のことをどんなに嫌いでも、僕はお母さんのこと、大好きだよ」
 詩織はその場で、息子を抱きすくめ、しばらくの間、ただはらはらと泣いていた。

第六話
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#創作大賞2024 #ミステリー小説部門


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火呂居美智
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