伊邪那岐の遺書⑤
約束してからの数日は、とても長く感じました。
その日のことを考えては、眠れない夜が何日もありました。
しかし、不思議と、前日の夜はぐっすりと眠れました。
晴れ晴れとした気持ちで目覚め、朝食の準備もうわつくことなく行えました。昨夜の残り物のお惣菜を温めながら、法律ではもう、結婚ができる年齢になったのだと意識していました。
朝食をすますと、わたしたちは予定通りに、別々にアパートを出発しました。
その日は朝から天気もよく、世界中が輝いているようにみえました。
秋風が肌をくすぐり、陽射し浴びるだけで体中の細胞に力を注ぎ込まれてるような、気持ちの良い日和でした。普段は人込みにいると気分が悪くなるわたしが、その日は、最後まで体調を崩さずに過ごせました。
バスに乗り、町の中心部に向かいました。
兄さんもよくご存知のように、わたしたちの住む町の中心には、大きな河が流れています。山林からの清流だけでなく、工業地帯からの排水も集めたその流れは、となり町を通って海へとつながっていました。
繁華街には、その川を横断する有名な橋があります。露天商や大道芸をする人がいたりして、歩行者も多くいつもにぎやかです。
教室で他の女生徒が話しているのを聞いたのですが、デートスポットや待ち合わせ場所としてもよく使われているそうです。
わたしはその橋の西側にたどり着くと、腕時計をみました。あなたも東側で、同じようにしていたと思います。
正午ちょうどになると、わたしは橋を渡り始めました。
しばらくして橋の向こう側から、ポケットに手を突っ込んで歩いてくるあなたの姿が見えました。
橋の中央ほどで、わたしたちは向かい合います。
あなたはぎこちない様子でしたが、微笑みを浮かべてわたしを見つめてくれました。
「すてきな女の人だ」
そう、わたしが望んだ言葉を口にしてくれました。
「すてきな男の人」
わたしも、何度も心の中で練習していたその言葉を、できるだけ自然に口に出しました。
それは儀式でした。
この世で初めて結婚し、兄妹神であったイザナギとイザナミの神話にちなんだ儀式。その儀式を通じて、わたしはあなたと、兄と妹を超えた一組の男女として出会いたかったのです。
そのあとわたしたちは、遊園地へ行き、アイスクリームを食べ、雑誌で探したレストランで食事をし、展望台で町の風景を楽しみました。それは一生分の楽しさをその日に使ってしまったかと思うほど、とても幸福なひとときでした。
もしかしたらわたしは、その幸せな気分に少し浮かれていたのかもしれません。そのまますべて、予定していた通りに最後までうまくいくと信じていました。
日が傾き、影が長くなってきたころ、歩き疲れた二人は公園のベンチに座りました。
そこでわたしは、思い切ってあなたに告白しました。
「兄さんを、ひとりの男性としてずっと愛しています。わたしを、ひとりの女性として受け入れてほしい。那央樹兄さんに、今夜抱いて欲しい」
そのあとホテルへ行って二人は結ばれる。
あなたには隠していたけれど、わたしのデートの予定はそこまで決まっていたんですよ。
冗談にしては、真剣すぎると思ったのでしょう。あなたは喉仏をこりこりと揉んでいました。困惑した表情で、しばらくのあいだ言葉に詰まっていましたよね。
これは女の勘ですが、おそらくそのとき兄さんには、好きな女性がいたんだと思います。その人のことが頭をよぎり、あなたは現実にたち戻ったのだと思います。そろそろ帰らないとバスがなくなってしまうなと、苦笑いで話題をすり替え、ベンチから立ち上がりました。
帰路のあいだ、わたしは無言でした。あなたはバスの窓から見える光景をときおり話題にしていましたが、顔は向けても視線を向けてくれることはありませんでした。
アパートに帰ってからも、わたしは一言も喋らないままでした。
朝とは違う、沈んだ気持ちでエプロンを結び、夕食の準備を始めました。
いつもとなにも変わらないようにしているつもりでしたが、包丁を叩く音がやけに大きくなっているのを感じていました。貧乏だった我が家には大事だった食器を、その夜に限り二枚も割ってしまいました。
あなたは気まずい思いだったのでしょう、風呂に行くと言って近くの銭湯に出かけました。
わたしは食事の準備を手早くすませました。
そのあとで、箪笥から睡眠薬を取り出しました。
通院のさい、寝つけない夜が多いことを相談したら、担当医が処方してくれたものでした。未成年なので軽い成分のものだと薬剤師は言っていたので、もらっていたすべてをビール瓶に溶かしました。
三十分ほどであなたは帰ってきて、まだ乾ききっていない髪をタオルで拭きながら、冷えたビールを一杯飲み干しました。酔わないと、どう対処していいかわからなかったのでしょう。二杯、三杯と早いペースでコップを空にし、無理に明るい表情を作っていました。
わざとらしくわたしの作った夕食を誉め、声をうわずらせて、今日の出来事を話していました。
それでもやはり、わたしの顔をまっすぐに見ようとはしませんでしたね。そんなあなたを、わたしは箸も動かさずに見つめていました。
夕食の品を半分も減らさないうちに、あなたのろれつは回らなくなってきました。眠くなってきたと頭をふらふらさせながら、まぶたをこすりだしました。
わたしは無言で睡眠薬入りのビールをコップに注ぎ、もう一杯飲ませました。
伊邪那岐の遺書⑥
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