妄想人間シアター最終話 「妄想人間シアター 戸川スミレ」
「この物語は、主人公の演劇青年Mが、ある歴史の古い精神病院の閉鎖病棟を訪れることから始まるの。彼は、患者たちに演劇の指導をするつもりでこの場所にやってくるわ」
戸川スミレは、瞬きひとつせず、じっと私の目を見据えながら、話を始めた。
「だけど、患者たちは演劇の基本のあれこれは無視して、それぞれが脚本を書いてきたから、演劇の経験者であるMに目を通してくれって言って聞かないの」
私は思わず眉をひそめた。
「Mは、しぶしぶながらもその提案を受け入れる。彼らの書いた脚本をひとつひとつ読んで、感想を述べていく。基本的に暗い話が多いわね。泣いている女の夢をみた若者の話。フロイト信者の男の語る、妄想めいた男女の逃走劇。すべてを疑い、Mのことも嘘つきと責める被害妄想患者の朗読。それらの作品に触れて、Mはとてもげんなりとした、嫌な気持ちになるわ」
「ちょ、ちょっと、それってまるで……」
私はそこで一度口をはさんだ。
スミレは子供っぽい笑顔で答える。
「うふふ。まあ、感想は最後まで話してからにしなさいよ。それで、ね。物語の中盤で、Mの奥さんと小学生の息子がその病棟を訪れるの。Mは、奥さんが息子の担任教師と浮気をしていると思い込んでいるわ。実はフロイト信者の脚本の中に、そのことが暗に示されていて、奇妙な既視感だけは感じている。Mは、自分が仕事をしているあいだに、こっそり奥さんが逢引をしているんじゃないかって疑って、二人を呼び寄せたの。学生時代同じ演劇部だった彼女には、演技の模範をしてくれって言いくるめてね。でも唯一の女性患者の指摘によって、奥さんが息子を虐待していたことが発覚してしまう。Mは驚き、戸惑う」
その主人公Mとは、明らかに私のことのようだ。
スミレの口調は、さすがに詐欺師をしていたというだけあって、滑らかで明瞭だった。
「しかし実は、そのこと自体が演技だったの」
「は?」
「つまり息子を虐待していたのは、奥さんの方じゃない」
戸川スミレの漆黒の瞳が、射るように私を見つめていた。先ほど見せた子供っぽさはすでに消えている。
「夫、Mの方だったの」
わ、私が……? いや、これは彼女の創作なのだ。いままでこの場所で起きた出来事を膨らませて、話を作っているだけなのだ。そのはずだ。
「Mは自分では気がついていない。彼には、自分が暴力を振るったときの記憶がない。なぜなら実は彼こそが、精神に異常をきたしていたから。解離性同一障害――俗にいう多重人格障害というやつね。もう日常生活に支障をきたすほどに、病状は進行していた。で、困ったのはMの家族たち。本人は自分の病気に気がついていないのだから、病院に通えと勧めることもできない。そこで奥さんは、昔馴染の知り合いに相談をした」
私は、なんだかやけに落ち着かない。
私が解離性同一障害などと、そんなことありはしない。そんなことがあるものか。彼女の方こそ精神に障害のある女性なのだ。その証拠に、彼女はスカートの中に穿くべきものを穿いていなかったじゃないか。
「そもそもMがそうなってしまったのには、奥さんにも原因があったからなの。彼女は一人息子が生まれてから、夫との性交渉を持たなくなってしまった。もともとそういうことがあまり好きではないというのもあったし、育児でそれどころじゃなかっただけなのだけど、夫はそうは思わなかった。定職につけず、自己肯定感も低く、周りへの劣等感やストレスも大きかったのでしょう。次第に心を病んでいった。やがて、妻が息子の担任と浮気をしているという疑念が生まれたの。疑念は徐々に妄想へと成長した。妄想はMの被害者意識を増大させ、それはあるとき逆転して、Mを加害者へと変えた。息子に虐待を加え始めた。冷酷な、暴力的な人格が生まれてしまったの。また長いこと性交渉をしなかったMは、セックスできそうな異性に出会うと、女性器の幻を見たりしたことがあったかもしれないわね」
そこまで冷静に聞いていたつもりだったが、最後の言葉が、私の心にちくりと刺さり、小さな穴を開けた。
幻……? 幻だったのか?
確かに私は、妻と長い間性交渉を持っていない。それを今日初めて出会ったスミレが知っているわけがなかった。
彼女はじゃあ、実は最初から穿いていたというのか。私が見た彼女の秘部は、私の妄想だったというのか?
心の穴は序々に、広がっていく。
思わず、私は彼女の股間に視線を落とす。
白い内腿と赤いミニの三角州は、見えそうでなかなか見えない。
「奥さんの知り合いたちは、Mのかつての友人だった精神病院の職員にも手伝ってもらって一芝居うつことを引き受けたの。つまり、別の目的でMを精神病院に招き入れ、そこでM自身が心に病気を抱えていることをさとそう……と。
精神科医と話し合ってカウンセリングの要素を取り入れ、本格的に脚本が練られた。そしてそれに添って、某劇団の団員たちが患者の役に扮した。彼らの演技は、中途半端に演劇をかじった程度のMの目には、本物と違いなく映ったでしょうね」
スミレは優しげな微笑を浮かべた。それが今までのものとはまた一味違う、知的な笑みに感じられる。
「そ、そんな……そんなこと」
私は思わず声を出した。
回りを見ると、川野が体を掻くのを止めている。平は疑いというよりむしろ見守っているといった様子で私を見ている。
鴻池は、あいかららず暗い顔をしていたが、数分前に比べると、今はずっと穏やかな無表状である。
彼らが役者だと思って見るからそう見えるだけか。それとも……。
私はまだ、納得できずにいる。
「では、巡査が秋山を銃で撃ったのも、演技だったというのか?」
「そうよ」
「大槻や、詩織や貴史も……?」
「協力してもらったわ」
心に開いた穴の中から、もう一人の凶悪な自分の顔が、垣間見えた気がした。
嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嘘偽りだ!
彼は、平の『偽りの歌』を歌っている。
スミレの言うことは嘘、単なる想像の産物なのか。
いや、そうではあるまい。
すべてが仕組まれたものだと考えた方が、説明のつくことがいくつもある。
廊下を歩いても、病院の職員たちは一度も巡回してこないし、スミレたち以外の患者は一人も見当たらない。いくら閉鎖病棟とはいえ、それはあまりに不自然ではないか。
スミレが服の上から貴史の痣を見破ったのだってよく考えればおかしかった。貴志は黒い服を着ていた。わかるはずがない。それに妻のあの豹変ぶりも演技だと思えば納得がいく。
血や銃弾の痕も劇団の特殊な小道具を使ったのだろう。そう考えると、秋山のケガが大丈夫だといって看護士が呼ばれないのも当然だろう。
そもそも玉入りのモデルガンを、患者が所持していいはずがないのだ。
川野の脚本で、完ぺきだったはずの王様は、実は家臣たちにだまされていた。
スミレの言うことは、単に脚本として語られているのではない。真実なのだ。
そして私は思いいたった。
二回目に巡査を倒したのはスミレではなく、暴力的な、もうひとつの私の人格だったのだ。
「舛添先生にねえ」
呼びかけながら、スミレはさっと足を組み替えた。
「本当は自分が病気なんだって言うことをわからせたくて、こんな芝居をしたってわけなの」
少し体を前かがみにして、しんみりとそう付け加えた。
私は肩を落とし、がっくりとうなだれた。
……そうか。そうだったのか。考えてみれば随分とむしのいい話が転がってきたものだった。そのことに気がつかない時点で、私はもう、おかしくなっていたのだ。
天地がひっくり返るような驚きの宣告だったが、不思議と素直に受け入れることができた。
自分の精神に障害があるといわれたのは、明らかなショックを私に与えた。しかし逆に、こういう方法で告知してくれたことには、むしろ感謝せねばなるまいとも思った。
もしそのまま何の工夫もなく、お前は多重人格者だから入院しろ、とでも告げられていたものなら、それこそひねくれものの私のことだ。きっと受け入れなかったに違いない。
だから妻や妻の知り合いがとった行動は的確であり、また、私も見事にはまった。
脚本も俳優たちの演技力も実に素晴らしい。本当の舞台で実演しても、きっと高い評価を受けるに違いない。
それにしても、この戸川スミレという女性は、いったい何者なのだろう。もしかしたら精神科の女医かとも思ったが、大した演技力だ。美貌も人並外れていて、風格もある。
もしかしたら、どこぞの大型新人女優かもしれない。
「君は、いったい?」
そう思ったので、私はなにげに尋ねてみた。
「あら、最初に言ったじゃない。まさか覚えてないの?」
「たしか……未来の大女優とか?」
「そう。
そして今がその未来よ」
そう言うと、戸川スミレはのけ反り返り、甲高い声をあげて、高々と笑った。
彼女のスカートの間が開いたので、私はさりげなく目を落とした。
やはり、なにも穿いていなかった。
(完)
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