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伊邪那岐の遺書18

 数日後、大きく感情が揺れ動いたせいか、わたしは体調を崩しました。
 頭の中でいくつもの鉛が徒競走をしているかのような頭痛とめまい。吸う、吐く、嗅ぐのすべてを封じ込めてしまった鼻汁。
 涙腺はお湯を溜めているかのように熱くほてり、耳鳴りがただれたような不快な強弱を繰り返して、私をぐったりとさせました。
 その日の朝、あなたはわたしの代わりに朝食の後片付けをしてくれてから、眉毛を下げたままのにこやかな顔で言いました。
「今夜、ちょっとしたお祝いをしないか? 実は昨日、ケーキを買ってきたんだ。もし俺たちの子供が生まれていたら、今日でちょうど一歳の誕生日をむかえていたはずだろ。その子をあらためて弔うために、今晩はそれを二人で祝ってあげよう。それをきっかけに、俺たちもまた、仲の良い兄妹に戻ろう。今日はお前も無理に外出はせずに、ゆっくりと家で休んでいてくれ」
 あなたは喉仏をこりこりと揉みながら、いかにもさりげなくといった様子で、
「いまの季節は暖かくなったり、冷え込んだりと気候も不安定だ。今日のお前の体には毒だろう。だからけっして外にだけは出ないように注意してくれよ」
 そう、わたしに念を押しました。
 戸口まであなたを見送る気力もなかったので、わたしは布団の中で、わかったと力なく承諾しました。
 いつもだったらそのやさしさに幸福を感じていたのでしょうが、このときもあまり気持ちは高揚せずに、ただ、あなたが喉仏をこりこりと揉む仕草だけが気になっていました。
 わたしは、あなたの言葉や態度に不自然なものを感じ取っていました。
 わたしの持病が一日や二日で治らないことは、長年の経験で兄さんは知っていました。
 なのになぜ、今日にかぎって、そんなことを言ったのでしょう。いえ、知っていたからこそ、無理をしないようにと念を押したのにちがいありません。
 しかしまるで、わたしに外出をしてほしくないような言い方にも聞こえました。何か外出をしてほしくない理由でもあったんでしょうか。
 それとも、わたしが家にいないといけない理由があったのでしょうか? もしあるのだとしたら、それはいったいどういった理由なのでしょう?
 あなたが仕事に出かけてから、布団にもぐり、あなたの言葉について考えを巡らせました。
 いえ、他の理由などあるわけがない。兄さんはただ本当にわたしの体を心配してくれているだけ。真剣に日子のことを後悔し、涼子さんとも別れ、これからはわたしだけを愛すると考えてくれているから、ああ言ってくれたにちがいない。
 毛布を頭までかぶりながら、ぬいぐるみの日子を胸に抱いて、数時間ほどそんなことを考えていたでしょうか。いつのまにかわたしは、日子を頬によせて泣いていました。
 わたしは、心の奥底では全部、気がついていたのです。ただ、必死に自分をごまかそうと、都合の良いように考えようとしていただけだったのです。
 わたしは、命をかけていいほどにあなたを愛しています。
 でもあなたは、わたしに妹という以上の感情を持ってはいない。わたしのことを、最初からひとりの女として愛してはいない。
 それが真実なのです。
 わたしは、あなたの癖や仕草のひとつひとつの意味もよく知っています。
 あなたが喉仏をこりこりと揉むのは、あなたが動揺を隠すときの癖です。
 あなたが泣きそうなくらいに眉を八の字に歪ませるのは、あなたが嘘をつくときの仕草です。
 わたしは涙も拭かずに布団から起き上がり、代わりに膿のようなものが溜まった鼻をかみました。するとわずかに回復した嗅覚に、異様な重い匂いがのしかかってくるのを感じました。
 ぐらぐらする頭を引きずって、その臭いの元である台所へ行きました。ガス栓が元から外され、そこから針のような瘴気がこぼれ出るのが、歪んだ視界に見えるような気がしました。
 窓はすべて閉め切られていました。
 わたしは咳き込み、意識が霞みつつあるのが、自分でもわかりました。
 窓を開けようとは思いませんでした。
 繰り返して言います。わたしは命をかけていいほどに、あなたを愛しています。あなたのためなら、この命を惜しいとも思わないし、あなたに愛されないのならば、死んだ方がましです。
 だから、あなたがわたしを邪魔と思っているのであれば、いっそのこと。

「お母さん、お母さん」

 そんな想いにとらわれていたわたしに、かわいい日子が呼びかけてきました。
「ああ、そうね。今日は日子のお誕生日だったわね。いまケーキをあげるから、ちょっとだけ待っていてね」
 わたしはぼんやりとそういいながら、冷蔵庫からケーキを取り出し、その上に一本のロウソクを立てました。
 足をもつれさせながら居間までマッチを取りに行き、そしてほとんど体を引きずるようにしながら、ケーキのそばまで帰りつきました。
 日子が無邪気な微笑みを浮かべ、わたしを待ち望んでいます。
 わたしは日子に微笑みを返しました。
 そして、ゆっくりとマッチに火をともしました。

伊邪那岐の遺書19
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火呂居美智
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