妄想人間シアター第六話 「完ぺきな王様 川野貢」
女と男が絡み合っている。
う、ううああ……。
思わず漏れた、男の弱々しい呻き声。
女の腕は、男の首から肩に回り、蝋のように白い女の脚は、男の野太い股の間に挟み込まれていた。
ふくよかな胸が、男の躰に密着する。
「こ、これ以上はやめてくれ……スミレちゃん」
男は険しい顔になる。
女の顔は悦びに満ちる。
私は呆気にとられ、ドアを閉めるのも忘れていた。
扉を開けた途端、目に飛び込んできた異様な光景。
たしか、コブラツイストとかいう技だったか。女にきめられたその技から、男は逃れることができないでいるのだ。
男は、ついに泡を吹き、パタリと床の上にのびてしまった。
「遅いじゃないのさ、先生。あんまり退屈だったから、川野とプロレスをしてたとこよ。もちろん、私の完全なる勝利だけど、ね」
はだけた胸元をろくに揃えもせずに、スミレは平然とそう言った。
「スミレちゃんは、まだ誰にも敗れたことがないんだ。先生も一度、スミレちゃんと戦ってみればいい。きっと勝てないはずさ。だってスミレちゃんは、力道山の生まれ変わりなんだから」
部屋に戻っていた吉武が、そう解説した。
「あら吉武、私が強いのはプロレスだけじゃないわよ。柔道でも空手でも、ボクシングでも、格闘技という格闘技のすべてにおいて、だれも私に勝てやしないわ」
「そう。そうなんだよ先生。実はスミレちゃんは、姿三四郎の生まれ変わりであり、大山倍達の生まれ変わりであり、モハメド・アリの生まれ変わりであり、宮本武蔵の生まれ変わりであり、ジャンヌ・ダルクの生まれ変わりであり、ビリー・ザ・キッドの生まれ変わりであり……ええと、あと、それから、ええと、孫悟空の……」
「うるさいぞ、吉武。お前見張り役を失敗したくせに、喋りすぎだ」
平が吉武を睨んだ。吉武はうつむき、それでもごにょごにょと口ごもる。しかし、次の名前は言い出せなかったようだ。
巡査の巨体は再び他の部屋に運ばれ、今度はしっかりと鍵を掛けたとのことだった。
「さあ、先生。さっそく始めましょうよ。芝居の練習を、ね」
スミレは、私に近寄ってくる。
私は即答できずに、溜め息だけを吐いた。
よほど自信を失った顔をしていたからだろう。スミレはこんなことを言った。
「お芝居はさあ、先生にとって人生の武器のようなものでしょ? 途中でやめるなんて言わないでよ」
「人生の……武器?」
「そうよ。人は誰しも自分の人生と戦っていくための武器を持っているものなの。私の場合はこの美しい顔とからだ。先生の場合は、お芝居。でしょ?」
その一言で、気持ちが少しは楽になった。
スミレに笑って答えようとしたら、彼女は目を細め、なまめかしく、紫の唇を嘗め回している。
不意に私は、さきほど繰り広げられた彼女とのベッドシーン思い出して、動揺する。
「あ、ああ、もちろんさ。しかし、川野君はどうするんだい?」
私がなんとかそう言うと、戸川は愉快そうに唇を曲げ、歯をむき出しにした。
「大丈夫、川野だったら、すぐに目が覚めるわよ。慣れているからねえ」
「そう。川野さんはゾンビの生まれ変わりなんだ」
吉武が嬉しそうに声を張り上げた。
ゾンビとは動く屍体のことだ。生まれ変われはしない。百歩譲って生き返りとでも言うべきだろう。私はそう思って吉武を見る。
彼は得意そうな笑みを浮かべていた。
「たまには面白いことを言うじゃないか」
さっき吉武をたしなめた平が、そう言って豪快に笑ったので、私もつられて笑みを浮かべた。
スミレの言った通り、ものの一分もせぬうちに、川野はそれこそゾンビのようにむくりと立ち上がった。
元陸上選手だという彼は、まだ二十代後半なのに、当部のいたるところに髪の蒸発した地帯があり、それを少しでも目立たぬようにと考えたのか角刈りにしている。
次は、彼の番だった。
一生懸命書きましたと真面目に前置きをしてから、川野貢は私に原稿を手渡した。
*
こられは、遠い遠いはるか昔の物語です。
世界にまだ大きな陸地はなく、広い海に、小さな島々がポツポツと浮かんでいるだけでした。
島にはそれぞれに人が住んでいて、それぞれ国を築いていました。
その中の一つに、完ぺきな王様が住む国がありました。
幼い頃からあらゆることに秀でていて、からだも強く、物覚えも早い子供でした。なによりも負けず嫌いな性格で、いつでもどんなことでも、相手より上手になるまで努力をしました。だから上達も早く、大人になった頃には、苦手なことは何ひとつ無くなりました。
剣の腕は一流で、国中の男たちのだれも王様にはかないませんでした。馬に乗れば、国中のすべての走り屋たちが王様に追いつくことはできませんでした。
また見た目も凛々しく、国中のすべての女たちが王様に恋い焦がれました。投票などしなくても、明らかに国で一番の人気者です。
まさに完ぺきな王様なのでした。
そんな王様ですから、当然多くの国民から尊敬されていました。
もちろん、その完ぺきさをねたむ輩もいるにはいるのですが、なにせあまりにも完ぺきなので、つけいるすきがありません。
とにかく、完ぺきな王様だったのです。
しかし、そんな王様にも、あるときついに弱点が生まれました。
病気に罹ってしまったのです。
家臣団と共に、貧しい民に施しを授けた際のことです。
悪臭のする汚らしい身なりの乞食が、王様に感謝をしたいと言って、足元にすがってきました。
寛大な王様は、乞食のすすがままにさせました。そのとき、乞食は王様の肌に直接触れたのです。
翌日、足元を襲う激しい掻痒感で、王様は目を覚ましました。
指先のあいだが、むずむずとずっと誰かにくすぐられているかのようです。
不快な感覚の正体を探ろうと、王様は足の指と指のあいだを開きました。すると、そこには、真っ白な膜が張っていました。
「こ、これは……」
我慢ができずに、王様は足の指を掻きむしりました。
しかし、このときはまだ知りませんでした。この病気は、掻けば掻くほどに広がっていく特性があるということを。
やがて、足指から足裏へ、くるぶしへと症状は飛び移っていきました。
そうです。王様が罹った病気とは水虫だったのです。
白癬菌が、王様の足の皮膚の内側に巣を作り、うようよと蠢いていたのです。
さて、ここで少し説明させていただきましょう。
皆さんはご存知だったでしょうか?
水虫とは、昨今でもいまだ有効な治療薬が発明されていない皮膚病です。塗り薬でも飲み薬でも、体内に住み着いた原因菌を完全に退治することはできません。薬の力で一時的に活動を抑えるのが精一杯なだけなのです。活動が抑えられた菌が垢となって取り除かれるまで、根気よく戦わないと、完全に治せない病気です。
現代ですらそうなのですがら、ましてやこの時代に、良い治療法などあるわけがありません。
いくら完ぺきな王様といえど、こればかりはどうしようもありませんでした。
何人もの医者がやってきましたが、だれも有効な手立てを打つことができませんでした。いろいろなかゆみ止めが処方されますが、どれも効果は長続きせず、王様はすぐに患部をまた掻きむしってしまいます。
一度掻いてしまうと、もう止まりません。
皮膚がボロボロになるまでやめられず、王様は何日もまともに眠れませんでした。
段々と、王様としての仕事も手につかなくなってきました。この国の運営は王様に頼りきりだったため、経済や治安は次第に悪化していきます。
国民もまた、王様へ不信を抱くようになっていきました。
見兼ねた家臣の一人が進言します。
「いっそのこと、その足首を切り落としてしまってはどうでしょうか?」
「いや、さすがにそれは」
王様はそう返しましたが、日々広がる水虫の侵攻を防ぐ見込みはありませんでした。
やがて、このまま水虫菌が広まって全身が水虫だらけになることを想像したら、足を切ったほうがまだましなのではないか、そんなふうに考えるようになりました。
そして、ある蒸し暑い夜のことです。
掻いても掻いても皮が剥げ落ちるだけで、少しも消えない痒みに嫌気がさして、王様はついに、部屋の壁から剣を取り出しました。
テーブルに座り、両足を座椅子の上に置いて、鞘から剣を抜きます。
バサッ。
「ぐおおおおおお!」
覚悟していたつもりでしたが、振り下ろした瞬間、苦悶の呻叫びが口からこぼれました。
家臣たちがすぐに部屋に入ってきました。
そのときには、王様のふたつの足首はからだから離れ、床の血だまりに転がっていました。
驚くひまもなく、家臣たちは急いで治療を開始しました。
止血され、清浄され、薬が塗られ、切断面にぐるぐると包帯が巻かれました。
「どうしましょう。縫合してくっつけましょうか?」
切り落とされた足首をつまんで王様に見せながら、家臣の一人が聞きました。
「いらぬ。そんなもの、犬でも喰わせてしまえ」
王様は言い放ちました。
痒みは消えていました。
王様は、痛みをこらえながらも、勝ち誇った笑みを浮かべました。
しかしながら、これで終わったわけではありませんでした。
あまり掻きむしっていたものだから、水虫は両手にも移っていたのです。
爪の先から始まり、指の又、てのひらに水虫菌は住処を変え、嫌な匂いを発し繁殖しました。
「おのれ負けてなるか、誰か剣を持て」
王様は家臣を呼び、自らの剣を渡しました。
「我が腕を斬り落とすがよい」
「ほんとにいいのですか?」
家臣はさすがに弱腰でしたが、王様の命令は絶対です。
そうして、両手首が切り落とされました。
「王様、これでもう剣は握れません」
「そうだな」
王様はそう嘆きながらも、今度こそ勝ったと確信しました。
しかし、水虫も負けていませんでした。
次は膝へ、肘へ、股間へと、しぶとく王様の体に食らいついていきました。
どこに潜んでいたのか、水虫菌は住処ごと排除されたはずだったのに、しばらくするとまた現れました。まったく恐ろしい不死の怪物のようです。
負けず嫌いな王様は、このときすでに頭がおかしくなっていたのかもしれません。
なにくそと膝を、肘を、陰茎をと、家臣に命令して次々と切り落としていきました。
この頃になると、家臣たちは嬉々として、王の体を切り落としていました。
家臣たちは実は心の内で、完ぺきたった王様を妬む気持ちを抱いていたのでした。
最後に、王様の首が切り落とされました。
こうしてクーデターは成功しました。
*
「なかなか、いいんじゃないかな」
私は素直に褒めた。
「本当かい?」
「ああ。短いけど短い分だけ、今までで一番まとまっているよ。ラストのクーデターになるまでを、もっと工夫して出していけば、ちゃんと脚本として使えると思う」
川野は掻く手を休めて喜んだ。
私が原稿を読んでるあいだ、彼は落ち着ちつかない様子で首と鎖骨のつけ根を必死に掻きむしっていて、そこは赤く充血していた。
私は、そんな川野と『悩める王様』の密接な関係に不快な気持ちがしていたが、顔には出さぬように努めた。
それに、『悩める王様』に手を加えればそれなりの作品になるだろうと思ったのは、本当のことだった。
登場人物に名前をつけて、会話やシーンを盛ったら、一応の形にはなるんじゃないだろうか。
しかしよくよく考えてみると、鴻池、秋山、平、彼らの作品に比べてちょっとはましという程度なのかもしれない。
前の三人の脚本には、本人の妄想や体験がもろに書かれていた。架空の舞台を設定しているだけ、川野の作品は受け入れやすいだけなのかもしれない。
「本当に本当だね?」
川野は目を輝かせて確認した。
「う、うん」
川野がとても嬉しそうなので、私も喜んだような顔をしてうなずいた。しかし、心の中ではまだ判断に迷っていた。脚本の形が出来ているのと、面白いは別な次元の話だ。
すごいすごいと、吉武が川野を褒めたたえている。
「ちょっと、まだ喜ぶのは早いわよ。まだここに本命中の本命が残っているんだから」
スミレが、落ち着いた声で口を挟んだ。
「スミレちゃんでも無理だよ。川野さんはスピルバーグの生まれ変わりなんだ」
「あら、言ってくれるじゃないさ、吉武」
私は、スピルバーグは映画監督だから関係ないだろうと思ったが、口にはしなかった。
「自信があるのなら、見せてもらおうか」
スミレがどんな物語をつくったのか、私は興味があった。彼女に関しては、他の患者のように精神自体に異常があるようには見えない。むしろ、思想や人生観の違いでここに入れられているように思う。
私はスミレの原稿に手を伸ばす。
彼女はそれを二つに折り曲げて、後ろに放り投げた。
「私のも、平さんみたいに口頭でいいかしら。実は今、書いていたのより面白そうな話を考えついたから、そっちを話すわ」
「それは、別にかまわないが」
「そう、良かった。じゃあ、タイトルはねえ、『妄想人間シアター』っていうのはどうかしら」
最終話
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