妄想人間シアター第二話 「発端 舛添史郎」
一時間ほど前、私はこの施設を訪れた。
大槻幸雄の勤め先は、取り壊し寸前の旧校舎を思わす、古ぼけた建物だった。壁には所々小さな亀裂が走り、病院特有の薬品の臭いが鼻を突く。
私は大槻の後をついて、わが生徒となるべき患者のいる病棟に向かった。大槻は厳重に施錠された重い扉の前に着くと、それを開け、私の背中を強く押した。
「後は自分で行ってくれ。僕は別の業務があるものでね。大丈夫、心配することはない。みな、軽度の症状だ。多少おかしなことを言うかもしれないが、危険はない。廊下沿いにある扉が彼らの部屋だ。突き当たりに娯楽室があるから、そこを練習場所に使ってくれていい」
「待ってくれ」
「ああ。奥さん達が来たら、通しておくよ。それとなにかあったら非常電話が廊下にあるから、それで事務所に連絡をしてくれたまえ。すぐに来るから」
それだけ言うと、大槻は扉を閉めた。
私はただ呆然と、通路を振り返る。
扉の内側は、外に比べていっそうぼろい。亀裂が崩れた壁からは針金が飛び出て、床には埃が積もり、ゴミ屑が散乱している。掃除をするスタッフを雇っていないのだろうか。照明も暗い。まるでお化けでも出そうな雰囲気だ。
「鶴屋南北か、小泉八雲でも演るか?」
私は重い空気をごまかそうと、自分自身に尋ねた。
「あんた、誰?」
すると、どこからともなくそんな声が返って来る。
目を凝らすと、すぐ正面の壁に、淡い影がゆらゆらと揺れている。私は、声を発したのがその影そのもののような気がして、小さく身をすくめた。
右に折れている廊下の向こうに、その声の主はいるようだ。その証拠に、影は右通路側から伸びている。
私は小走りになって、その通路を覗いた。
廊下の中央に、ミニスカートの女が立っていた。
背景にそぐわない、鮮烈な赤色に身を包んでいる。
長い黒髪と透明感のある白い肌が、本当に幽霊なのではないのかと思わせた。そうではないことを確かめようと私は女に近づく。
そして、ゴミの塊に足の爪先を引っかけ、勢いよくこけた。額を激しく床に打ち付け、小さく悲鳴を上げる。
女は、私のそばに立つ。
しゃがんで、私の顔を覗きこんでくる。
無邪気にも彼女は、その長い脚と短いスカートのアンバランスさを、微塵にも気にかけていない。自然と私の視線は彼女の開かれた股間に注がれる。
なにも穿いていなかった。
成熟した乙女のそこに、私は二、三度目をしぱたたせてから、慌てて顔を背けた。
女の美しい顔がある。
長い睫毛に包まれた黒い瞳が潤み、紫の唇が微笑している。まるで娼婦のように妖しくもあり、少女のように可憐にも見える。
私は女と目を合わしているのが気恥ずかしくなり、目を逸らした。そして再び生々しい彼女の秘部を目の当たりにし、赤面する。
「あんた、先生?」
女はそう聞いた。
「……いいや。私は医者じゃない。今度ここで演劇の指導をすることになった舛添史郎というものだ」
私は目のやり場に困って、ついに顔を床に向けた。
「だから、お芝居の先生なんでしょ?」
「ああ。それならそうだが、君は?」
彼女はその美しい指を二本、私のあごに添えて、ぐいと自分の方へ向かせる。
あらためて、ギリシア彫刻のように整った女の顔に、瞳を奪われた。
「さあて」
女は嬉しそうに目を細める。
「未来の大女優、とでも言っておこうかしら」
鼻先がかすかに触れ合う距離で、彼女は私を見つめ、甘い吐息が私の唇に触れた。軽い目眩を覚えた。
それが、戸川スミレだった。
そして初めて彼女の名を耳にし、この施設に訪れるきっかけとなると、それからさらに一週間もさかのぼらねばならない。
私は、大学の頃の知人である大槻から、家でうだうだと読書をしているところを呼び出された。なんでも演劇の指導ができる人材を紹介してほしいとのことで、その頃失業中であった私は、もし自分自身で間に合うようなものだったならば、この機を逃すまいと固く心に決めていた。
あまり流行っていない、こぢんまりとした喫茶店の中を見回すと、グレーの背広に身を包んだ小男が私に手招きをしてきた。若干額が寂しくなってはいたが、鼻のまわりが脂ぎった丸顔はあいかわらずだ。
大槻は、私が大学時代に演劇部の部長をやっていたことを思い出して、連絡をしてみたのだという。文芸同好会に所属していた彼とは、部室が近かったのと、部長同士であったことから何回か話をしたことがあった。部長といっても、総勢二十人弱を誇るわが演劇部に対して、文芸同好会はわずか五人足らずのサークルで、彼が特別精力的に活動していたというわけでもないようだった。彼らの部室には、サークル活動とは全然関係ないアイドルや美少女アニメのポスターがべたべたと貼られ、むしろ彼は率先してそういうものに溺れていたように記憶している。
学園祭はどうだった、あの講義は、あの教授はどうだったのと、内容の少ない昔話に花を咲かせたあと、大槻は自分の職場のことを話題にし始めた。そしてその中に、戸川スミレという名前が出てきたのである。
「彼女はねえ、男のいちもつを食いちぎったことがあるんだよ」
大槻は、昔とあまり変わらぬもごもごとしたか細い声で、そんなことを言う。彼は郊外にある、創立百数年という歴史のある病院に事務員として勤めており、戸川スミレとはそこに入院している患者の一人のことだった。
「へえ。まるで阿部定みたいだね」
私は少々戸惑いながらも、思いつくままにそう答える。
「いやいや違うよ舛添君。阿部定は死んだ龍吉の陰部を、愛しさのあまりに切り取り、持ち歩いたんだ。戸川スミレの場合はそうじゃない。生きているときに、男根を愛撫しているそのときに、がぶり、とかみついたんだ。つまり男がいまにも絶頂を迎えようとしているその瞬間に、一気に地獄の苦しみへと突き落としたというわけさ。まったく同じ男として想像さえしたくない惨事だよ。血みどろになったあそこを押さえてもだえ続ける男を見ながら、彼女は愉快そうに笑っていたというじゃないか。本当に恐ろしい女だよ」
大槻は含み笑いを殺そうかとするように、カップに口をつける。
口ではそう言いながらも、私にはまるで、この男は自分も同じことをしてほしいように思えたので、むしろそのことに不気味さを覚えていた。
「それだけじゃないよ君、口づけをかわしている際に、相手の舌を食いちぎったこともあるんだ。さすがにそいつは死んでしまったらしいけどね。事件として告訴されたのはその一件だけだけど、彼女は金に困ったときはいつもそうやって日銭を稼いでいたって噂もあるんだ。稀にみる美女だからねえ……。僕も戸川スミレの甘い誘惑にだけは、気をつけたいところだよ」
それもどこかで聞いたことがあるような気がした。たしか南総里美八犬伝にでてきた船虫という悪女の仕業だったと思う。
それにしても、自分の病院の患者のことを、久し振りに会った私にそこまでひけらかす必要もあるまい。もし、この店の中に彼女の身内でもいたら、名誉棄損で訴えられるだろう。
そう考えるが、あえて口には出さない。
なぜなら、この償味期限切れの揚げパンのような顔をした男こそが、私の今後の夫としての、父親としての威厳を回復させるかどうかの鍵を握っているからなのだ。
近くて見えぬは睫毛というが、その頃の私は本当に自分自身に対して無知であったように思う。妻や息子、両親に対してはあげ足を取るがごとく一々文句をつけたがるが、ことに問題が自分にいたってはまったく正視しようとしていなかったのである。
ついついあるこだわりをもって職を吟味してしまい、私はこの二、三年まともな仕事に就いていなかった。気を使ってそのことにあまりふれない妻や両親に向って、逆に偉そうに振る舞っていたのである。まるで、ちょっとしたことですぐに吠えまくる犬のように。
だから、この大槻の申し出は、私にとってまさに一陽来復の兆しといって良かった。
「そんな残酷な女が、なんでまた刑務所ではなく神経科に?」
大槻の話題に合わせようと、そんなことを尋ねてみる。
「殺人犯が精神病院送りになるのは、往々にしてあるものなんだよ。近代国家の限界っていうやつだ。彼女の起こした事件は猟奇的すぎて、一般人に理解しやすい動機づけができなかった。それで精神病だと判断が下された。詐欺まがいのことを生業としていたらしいから、きっと彼女もうまく気狂いのふりをしたんだろうさ。結果、わが聖クレッセント病院の閉鎖病棟で更生させることになったんだ」
大槻は、得意げにそんなことを喋る。
だいぶ機嫌良くなっているようだった。戸川スミレの話に興味がなくはなかったが、そろそろ本題に入ってくれぬものかと、私はそわそわとしていた。
「まあ、いくらか国から補助金がもらえるしね。うちのような不景気な病院にとっては助かるんだが。君、知っているかい? 精神病の患者を入院させるのがどんなに大変かを」
「……いや」
「精神病患者というのは、たいていの場合自分が病気にかかっているという自覚がないものなんだよ。だから医者が診断をくだそうが家族が説得しようが聞く耳を持たないんだ。ばかばかしいと思っている程度のはまだいいが、ひどいのになると自分が罠にはめられようとしている、よってたかってみなが自分をだまそうとしている、とそう考えてしまうんだな。まあ、だからこそ精神病院に入院する必要があるんだけど。仕方なく僕らとしては国家権力に頼らざるを得ない。警察官に頼んで強制的に連行してもらう。これがまた面倒臭いことが多くてねえ。この間なんか、逆に妄想癖のある警官を入院させなくちゃならなくて苦労したよ。彼の上司に協力してもらって、患者を監視する任務に就いてくれ、ってそう言ってもらってなんとか病院まで連れてきたんだ。実はその警官は、今もそう思い込んだまま入院生活を続けているんだけどね……」
大槻は、鼻の回りだけではなく、口にも脂がのってきたようで、コーヒーを味わうこともほとんど忘れている。
もともと自分が好きなことに対しては休まず話し続ける性格ではあったが、よほどストレスでもたまっていたに違いない。
精神病の規定が曖昧なのをいいことに誤診を繰り返し、それを認めようとしない医者のこと、長い紐を見るとなんでも蛇だと勘違いしてしまって錯乱状態に陥る青年のこと、寝ようとすると全身が痒くてたまらなくなり、もだえ苦しむ不眠症の元陸上選手のことなど、思いつくままに話を続けた。
私は沈黙して、大槻の話を聞いていた。後の方になってくると、もはや日頃の彼の愚痴のようなものが入り込んでしまっていて、止めるのもなんだかためらわれる。
ときおりコーヒーカップに口を付けながら、私は内心物思いにふける。
取りあえず、話したいだけ話させればいい。機嫌を損ねられては困るのだ。適当に相槌をうっている間に、本題に進むことを期待しよう。
いろいろな話題が繰り広げられたのだが、その半分以上を、私は愛想笑いを浮かべたまま聞き捨てていた。
いかにも興味深げに細められた私の両目には、まるで粗引きの香りに酔ったのかのように止めどなく動き続ける、大槻の厚ぼったい唇だけが、ただ見えているだけであった。
「しかし最近は、そんな社会ではとても通用しないような人間にも、人権だなにだとうるさくてね。それで、新しい娯楽の一環としてなにがいいかと彼らに希望を募ってみたんだ。そしたらねえ、なんと……」
一時間近くもそんな一方的な会話が続いただろうか。そろそろ睡魔も襲ってこようかという頃合だった。次の台詞に、針でつつかれたように私は我に返った。
「演劇がね、やりたいと言い出したんだよ」
大槻は、じっと私の顔を見ている。
「演劇、が?」
私は平静を保とうと頬の筋肉を繕う。声が少しうわずっていたかもしれない。
「そう。そこで君のことを思い出してね。演劇部の部長をし、たしか脚本で賞も取ったことがあったじゃないか」
私はここぞとばかりに、慌てて背筋をぴんと張った。
「う、うん。覚えていてくれて嬉しいよ。大きな選考会じゃなかったけど、『イリュージョンの流転』という作品で佳作を受けたことがある。あとから裏事情に詳しい先輩に聞いたんだけど、なんでも入選にもう一点たりないだけだったとか。テーマの突きどころは良かったようなんだけど、あまり観念的になり過ぎたようで、一般客には理解しにくいだろうと判断されたみたいなんだ。それというのも、そもそもそのとき扱った題材がね……」
「いやいやみなまで話す必要はないよ、舛添君。内容はともあれ、佳作という結果を残したことが素晴らしいんだ」
「ありがとう」
「で、電話でも少し話したけど、そんな君なら劇の指導のできる人を紹介してくれると思ってね。誰かいい人はいないかな」
「……指導料は出るのかな?」
「もちろん謝礼を出すことも当然考えている。一回の講師料を一万円、週に一、二回ほど来てもらえばいい。いい小遣い稼ぎになると思うよ。なあに、それほどかしこまってする必要もないさ。要は彼らに、本格的に演劇をやっていると思わせてくれればいいんだ」
すばやく頭の中で計算した。ひと月に八万前後、か。少し物足りない。しかも大槻の話を思い返すと、精神病患者相手の指導というのは、難しい要素も多いように思えてくる。
だが、いくらかの問題はあるのかもしれないが、とにかく仕事にありつくのが先決だった。演劇をやって金がもらえるのだ。この三年間演劇に関係する仕事をしたいとこだわりをもって就職先を探し続け、やっと前進らしい前進が見えたのだ。この機を逃す手はあるまい。
口を真一文字に結んで、私は自分自身にうなずく。
「誰かいい人はいないかい?」
大槻は、再度そう尋ねた。
「君の目の前にいるじゃないか」
私は両膝に手を置き、自信をもってそう答えた。
大槻はそんな私を見て、しばらくなんとも言いがたい顔をしていたが、なんだ灯台下暗しだったかと言って、笑った。
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