伊邪那岐の遺書14
そんな日々が一年近くもたったある日のことです。
わたしは天気も良いのに、昼間から雨戸を締め、部屋を暗くして過ごしていました。
「那美子さん、いらっしゃいますか?」
突然ドアがノックされ、玄関から女性の声が聞こえました。
日子を抱きながら物思いにふけっていたわたしは、視線だけを玄関に向け、黙ってやり過ごそうとしました。
しかし、声の主はわたしがいる気配を感じ取ったのか、かまわず自己紹介をはじめます。
「三上涼子といいます。那央樹さんと、結婚を前提にお付き合いをしています。それでぜひ一度、那美子さんとお話ししたいと思い、突然で申し訳ないのですが、訪問させてもらいました」
その言葉に、びくりと体が反応しました。しばらくしてからもう一度、控えめなノックあったので、わたしはそっとドアを開け、外をうかがいました。
「はじめまして」
思わず、まぶしさに目が眩みました。
こういう表現をするのは少し大げさに感じられるかもしれません。しかし、涼子さんに惹かれたあなたなら、きっと理解してくれるのではないかと思います。
ドアを開けると、そこに、天女が舞い降りていました。
色白で、ふんわりとした頬をしていて、黒くて長い髪はうなじで優雅に束ねられています。
清楚な淡いピンクの服を身につけていて、わたしは自分の着ていたシミのついたブラウスが恥ずかしくなって赤面しました。
涼子さんは少し緊張した面持ちで、静かに頭を下げました。
「会えてうれしいわ」
彼女が笑うと、世界が明るさを増すようでした。初めて会ったにもかかわらず、彼女の微笑みに心が癒されるのがわかりました。わたしが、あなた以外の人間に、そんな感情を持つなんて、生まれて初めてのことです。
警戒心が薄らいでしまったわたしは、つい彼女を部屋の中に招き入れてしまいました。
「那央樹さんとは半年くらい前からお付き合いをしているの。あまり話したがらないけど、那美子さんのことも聞いているわ」
卓袱台をはさんで、お互い正座をして向かい合いました。
彼女の背中が若木のようにぴんと伸びているのに対して、わたしはしおれた枯れ草みたいに丸まって座っていました。
最初、あまりの部屋の汚さに戸惑っているようでしたが、彼女はすぐに気を取り直したようで、まっすぐな視線でわたしを見つめます。
わたしは、部屋に入れてしまったことを後悔しました。
「わたしの何を聞いているの?」
「兄想いで、やさしい妹だって。病気がちで、小さい頃からよく体を崩して、たいへんだったのよね。今もあまり良くなくて、学校も休んでいるんでしょ?」
わたしはあいまいにうなずきました。
「兄さんと、本当に付き合っているの?」
「ええ、そうよ」
彼女は、あなたとの出会いについて詳しく話してくれました。
仕事の付き合いで食事に招かれたとき、二人は出会ったそうですね。
慣れない食事のマナーにあなたが戸惑っていると、たまたま隣の席だった涼子さんが、丁寧に作法を教えてあげたとか。あなたの不器用そうだけど、真面目で謙虚な態度に、彼女は好感を抱いたそうですよ。
その後、個人的に食事に行く約束をして、同い年だったあなたたちは惹かれ合っていったんですよね。交際が始まって半年も経っていたというのに、わたしはまったく気が付いていませんでした。
彼女は、あなたにぞっこんでした。できれば早いうちに、あなたと結婚したいと望んでいました。
聞けば、お金持ちのお嬢様なんですね。家柄も良く、わたしたちとは比べようがないほど恵まれて生活していたことが、言葉や振る舞いからも伝わってきました。
「実はね、今日は那央樹さんには内緒で、那美子さんに会いに来たの」
涼子さんは、思いつめた顔で言いました。
「彼は、一人で悩むところがあって、なかなか胸の内を打ち明けてくれないの。でもね、私は仕草や表情で、彼が悩んでいるのが、なんとなくわかる」
兄さんは、涼子さんとの結婚をためらっていたのですね。その原因が妹のわたしにあると、彼女は感じとっていたようです。
「私は那央樹さんのことを愛している。必ず結婚したい。でも彼は迷っている。たぶん、それは那美子さんのことが心配だから。ひとつは、あなたの体のこと、いつ体調が悪くなるか心配だから、一人にしておけないと思っている」
そのまなざしは真剣で、ここに来るまでいろいろ悩んだ結論だったのでしょう。
「まだ十七歳ですものね。離れて暮らすにはいかないものね。私はね、結婚しても、那美子さんもいっしょに住んでいいと思ってるの。学生時代は看護科だったから、那美子さんの回復の手助けもできると思う。お兄さんが仕事が忙しいときは、代わりに面倒をみてあげられる」
わたしは、突然の提案に言葉を失いました。
「それともうひとつは、那美子さん、あなたが二人の結婚にたぶん反対すんじゃないってお兄さんは思っている。たった二人だけの家族ですものね。小さいころから、兄妹で支えあってきたんですものね。お兄さんを盗られるようで、きっと嫌に決まっているわよね。
だけどね、那美子さん、私は別にあなたのお兄さんを奪いたいわけじゃないのよ。あなたのお姉さんになりたいの。那央樹さんといっしょに、あなたのことも大切にする。約束する。
だからね、こんな私だけれども、受け入れてほしいの。私と、お兄さんが安心できるような仲の良い姉妹になってほしい」
少し緊張しているのか早口だったけど、彼女からは良き姉となろうという決意が伝わってきました。
「それを言いたくて、今日はあなたに会いに来たのよ」
いつのまにかわたしは、彼女の目をまともに見ることができなくなっていました。
「無理だと思う。わたしは兄以外の人と話すのは苦手だもの」
「すぐには難しいかもしれないけど」
「喜怒哀楽も激しいし、勉強もできないし、料理も美味しくないから、兄も最近あまり食べてくれなくなった」
「大丈夫よ。わたしは気が長い方だし、勉強はそんなにできないけれど、料理はそれなりに作れるから、教えてあげる」
彼女は答えを返すたびに、やさしい笑顔を浮かべました。
こんなことを書くと負けを認めてしまったようで悔しいけど、少しの時間接しただけで、涼子さんの人柄に気づかされました。
彼女は、誠実で穏やかな女性でした。学生時代はきっと優等生で、周囲からも慕われていたにちがいありません。
そんな女性に堂々とあなたと結婚をしたいと告げられて、わたしは内心恐怖に襲われました。そして、彼女とひそかに交際していたあなたに裏切られた気持ちで、心が折れそうでした。
「あなたと兄が結婚することでさえ、今日初めて聞いたのに、いっしょに暮らすとか、姉になるとか言われても、考えられません」
弱々しくわたしが発すると、涼子さんはわたしの隣に座り直して、柔らかく手をとります。
「お兄さんのこと好きなのね? わかるわよ」
たぶん彼女は、妹としての愛情について言ったのだと思います。他に身内のいないわたしが、たった一人の兄を取られ、不安になっていると思ったのでしょう。
しかし、なぜでしょう。恋敵のはずの彼女に手を握られ、気持ちを共感してもらえることに、不思議とうれしさも感じていました。
「彼もあなたのことをとても大切に思っている。べつにお兄さんがいなくなるというわけじゃないのよ」
涼子さんの言葉には、人の心を穏やかにする魔法がかかっているようでした。
「いえ」
それでも、わたしは彼女を拒もうと必死でした。
「兄のことなどどうでもいいです。結婚したいのなら、好きにすればいい」
つとめて平静にそう伝えたつもりだったのですが、わたしは辛そうな表情をしていたのにちがいありません。
涼子さんは美しい絹でも織るように、言葉を紡ぎます。
「お兄さんと私が結婚しても、あなたは一人になるわけじゃない。新しい家族が一人増えるだけだから」
涼子さんは声をかけながら、わたしを抱きしめました。
わたしは、驚きのあまり固まってしまいました。
彼女のうなじからは、せっけんの香りがしました。
「いっしょに住みましょう。そして、那央樹さんがびっくりするような、仲の良い姉妹になりましょう」
何も言葉を返すことができませんでした。
母に抱かれた子供というのは、きっとこのような気持ちになるんでしょうか。
わたしはしばらくのあいだ、彼女に身を委ねていました。
伊邪那岐の遺書15
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