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メコンの大河を遡上せよ 【世界旅行記086】

2012年12月27日(木) パークベン → ファイサイ(ボート)
2012年12月28日(金) ファイサイ

ルアンパバーンのカフェで、次の移動について考えていた。ラオスからタイ北部へ出よう。そして、タイ北部から南へ下ってバンコクへ戻ろう。

タイ北部への行き方はいくつかある。遠回りだが、確実で無難なのはバス。一方、最短距離を通るのは、メコン川を船でさかのぼるルート。メコン川を北上すれば、東岸はラオス、西岸はタイになる。このルートには、スピードボートとスローボートという2種類の船が通っている。スピードボートだと6時間で行けるが、ヘルメットとライフジャケットを装着し、まるで競艇ボートに乗っているかのような過酷な状況に耐えなければならない。スローボートだと格安かつ安全に行けるが、いかんせんのろい。同じ距離を2日かけて移動する。途中の町で1泊しなければならない。さすがに退屈ではないか。やはりここは無難にバスで行こうか。

迷っていたそのとき、たまたまやり取りをしていた義父からメールが届いた。「君の旅への憧れを聞いていると、松尾芭蕉を思い出します」

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。

有名なおくのほそ道の序文が書き添えられていた。それを見て思った。「そうだ、スローボートで行こう」

単純すぎる思考回路だが、わたしはすっと納得した。舟の上に生涯をうかべ……そんな人生もまたありだろう。余りある時間を持ちながら、わたしはなぜ先を急いでいるのだろうか。どこへ行こうと、どこで長期滞在しようと自由なのに、なぜ着実に歩を進めようとしているのだろうか。義父は、「旅への湧き上がる思いを今、心ゆくまで堪能しているのですから、人生の佳境の筈です」と言った。

スローボートで行くと決めたら、急に気がラクになった。本当は、こうしたかったのだ。のんびりしたかったのだ。松尾芭蕉が、いや義父が、「ゆっくり進め」と背中を押してくれたような気がした。

スローボートは、6、70人は乗れるような大きな船で、椅子は自動車のリアシートを再利用して作られていた。再利用といっても、リヤシートを取り外して下に木の板を通し、それを船底に直接打ち付けてあるだけのものだ。やや強引だが、しかし木の硬い椅子よりも、ずっと座り心地はいい。リヤシートは日本製なのである。

客は7割程度が観光客で、残りは現地の人が日常の移動手段として使っている。途中、何か所か立ち寄るあいだに、彼らはほとんど降りてしまった。こんなところに家があるのか?と思うような、ただの砂浜のような川岸に船が接岸すると、どこかから裸足の子どもたちが駆け寄ってきて、家族が降りてくるのを待っていた。

観光客はほとんどが白人で、日本人はひとりも見かけなかった。圧倒的に短期旅行が多い日本人には、このゆっくりすぎる移動方法は敬遠されるらしい。しかし、長期旅行がメジャーな欧米系の旅行者には、かなり人気なのだという。セーヌ川やライン川下りに通じるものがあるのかもしれない。

船が出発すると、彼ら白人旅行者たちは、思い思いにくつろぎはじめた。読書にふける若者、ノートパソコンで映画を観るカップル、トランプで盛り上がる家族。筆を取り出して絵を描きはじめる人もいる。なにもないところでくつろぐのは、日本人がめっぽう苦手とするところだろう。急にリラックスせよ!と言われても、なにをしていいやら、手持ち無沙汰になってしまう。いろいろな旅行者を見ていると、なにもない時間を楽しむ術は、欧米系の旅行者に軍配が上がると思う。

わたしの目の前に座っていたニュージーランド人の若夫婦は、買ってきたヨーグルトとシリアルをごそごそと取り出し、両者をカップに開けて持参のスプーンでよくかき混ぜ、朝食を完成させた。ヨーグルトだけ、あるいはシリアルだけならわかるが、わざわざ両方を別個に用意して、それを混ぜてまで食べたいものを食べる。つまり、なんとしてもいつもと同じ朝食を取ろうとする、そういう姿勢は見習いたいと思った。頑ななまでに生活スタイルが確立しているように見えるのである。

わたしはといえば、景色を眺めるか、音楽を聴くか、本を読むか、食うか寝るかして過ごした。揺れがあまりないので、読書をしていても酔わないのは助かった。これらの行為を順番に繰り返しているうちに、あっという間に8時間の船旅がおわり、パークベンの町に到着した。今日は、この町で降りて1泊する。町といってもスローボートの客向けにゲストハウスと飲食店が並ぶだけの小さな町である。客引きに連れられて、1泊30,000キップ(約300円)の宿に泊まった。

翌日も同じメンバーで、同じ8時間の移動である。2日目ともなればさすがに退屈してくるかと思ったが、いろいろと考えごとをしているあいだに、気がつけば国境の町・ファイサイに到着していた。

昨日は船頭が器用に岩礁や浅瀬をよけながら走っていたが、川をさかのぼるにつれ、川幅も広がり、水かさもだいぶ増してきた。あいかわらず、両岸には深い緑の山々が広がり続けている。山の気候で朝晩はかなり冷え込むため、上下長袖を着込む必要があるが、日中になると急に眩しくなって半袖でも暑いくらいだ。こんなのどかな風景をのんびり眺めながら過ごせるのだから、もう2、3日乗っていてもいいと思った。全然飽きるということがない。

今日もまた日が沈もうとしていた。左手に沈みゆく夕日を眺め、ふと右手を見ると、今度は真ん丸の白い月が、ちょうど目の前に迫っていた。船はまっすぐに北上していた。沈む太陽とのぼる月を交互に眺めた。よく見ると、白い月は真ん丸ではなく、ちょっと寸胴だった。明日あたりに満月だろう。こうして毎日のように、太陽と月を眺めながら旅をしている。

丸い月を見るたび、インドでヨガの先生が言った、ちょっとおもしろい言葉を思い出す。「見てごらん、あと5日で満月になるから」 わたしにはそれが信じられなかった。月はまだ半月を過ぎたばかりで、とても5日で満月になるとは思えなかった。だから、その先生の言葉をわたしは鼻で笑った。おかしなことばかり言う先生だったから、また冗談だろうと思った。ところが、それからみるみる月は肥えて、ぴったり5日で満月になった。月の満ち欠けは意外と早い。そんなことも、わたしは知らなかった。

2日目は予定より1時間半も遅れが出て、国境の町・ファイサイに着くころには、すでに日が暮れていた。そのせいで国境を渡りそびれてしまった。ここでは、メコン川を小舟で渡る以外に国境を越える手段がない。だから、日が沈んで暗くなってからでは国境を越えられない。イミグレーションも6時には閉まってしまう。

国境を渡ってタイ側に出てしまえば、バスやミニバンでタイ北部の主要都市に出られると思っていたが、調子が狂った。しかし、どうしようもないのだ。1泊の差がなんだというのだ。焦るな、焦るな。そう自分に言い聞かせながら、その日はファイサイに宿を取り、早々に寝床に入った。こういうなにもない町は、日暮れとともに活動を終え、朝日とともに活動をはじめる。ラオスにいるあいだに、わたしの生活はすっかり朝型になっていた。

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Travelife Log 2012-2013
世界一周の旅に出てから12年。十二支ひとまわりの節目を迎えた今年、当時の冒険や感動をみなさんに共有したいという思いから、過去のブログを再発信することにしました。12年前の今日、わたしはどんな場所にいて、何を感じていたのか? リアルタイムで今日のつぶやきを記しながら、タイムレスな旅の一コマをお届けします。


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