会社を辞めた理由、旅に出た理由 【世界旅行記092】
2013年1月9日(水) クアラルンプール → クアンタン(乗用車)
クアラルンプールに着いてからというもの、新しいiPhoneを買うために奔走し、諸々の設定(復元・インストール・アップデート・画面保護シール貼り・画面保護シールの貼り直し・日本版には付いていない余計なシール剥がし等々)に思いのほか時間を奪われ、その片手間で明日からはじまる瞑想に向けて付け焼刃で解説書の中身を頭に叩き込むうち、瞬く間に時間切れとなって、すでに夜も11時。明日の朝9時にはクアラルンプールを出て、郊外の瞑想センターへと向かうことになっている。
iPhoneを買うのはけっこう骨の折れる仕事で、ローヤットプラザという、秋葉原をまるごとひとつのビルに押し込んだような電脳ビルに出かけ、ケータイショップが100軒以上もところ狭しと並ぶフロアに圧倒されながら、各店舗で値段や条件を聞き、これは正規品だろうか、いや中国産のニセモノかもしれない、外箱のロゴがなんか違う気がする、などと疑心暗鬼になりながら、ときたま1階のカフェに寄って頭を冷やし、インターネットで正規品とニセモノの見分け方を調べ、やっぱり冷静に考えてから明日出直そうと思い至り、結果、昨日も今日も、宿から歩いて30分もかかるこのビルへの往復で1日が終わってしまった。観光も食事もろくにしていない。
物欲にまみれ、同じものを1リンギットでも安く買おうというさもしさに満ち、最近の「なにをやってもうまくいかない感」も相まって、わたしの精神状態はいま、きわめて悪い。なにをやってもうまくいかない。昨晩は、ドミトリーの部屋でドイツ人が深夜までスカイプでガールフレンドとテレビ電話をやっているので、「うるさいから下へ行け」と言って追い出してしまった。どうも気が立っていけない。しかし、寝ようとしている人がいるのに、ドミトリーで大声を出されたら、かなわない。常識的に考えてほしい。彼は、こんちくしょうといった感じで部屋を出て行った。
欧米人は、旅行先でスカイプばかりやっている。本当にどこへ行っても、どんな旅人でも、宿ではスカイプ。そんなに恋人の声が聴きたいなら、旅なんかしなければいいのに。もしくは一緒に旅をすればいいのに。どうして彼らは、暇さえあればスカイプに走るのだろうか。おかげでゲストハウスのインターネット回線が混み合い、わたしは聴きたいポッドキャストがダウンロードできなくて迷惑している。
こんなどうでもいいことを書くのに、もう20分も費やしてしまった。本当は別に書きたいことがある。それは、なぜわたしは会社を辞め、そして世界旅行に出たのか、ということである。実は今日で、旅をはじめて180日になる。一応、1年の予定で旅をしているから、約半分ということになる。「1年」には特に意味はなく、それを超えたら社会復帰できないかもしれないという、根拠のない漠然とした不安が出発前にあったからである。
半年もあったわりに、これまでこのテーマには触れてこなかった。出発直後に書こうと思ったときが何回かあったが、いま書いたら組織への愚痴やネガティブな思考が多くなっていけないと思い、自重した。その後も書こう書こうと思いながら、どうも腰を据えて書く気にならず、半年が過ぎてしまった。これ以上時が経つと記憶が風化して、すべてがきれいごとになってしまうかもしれない。それは避けたい。
10日間の瞑想に入る前に、どうしても書きたいという思いが生じたので、いまから1時間と時間を決めて、書けるだけ書き下してみようと思う。いまの時点で、なるべく正直に、あのころの思いを書き綴ってみたいと思う。将来の自分のためにも、いま、書いておきたい。
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経営コンサルタントという職業を選んだのは、端的に言えば将来の選択肢を狭めたくないからだった。経営者になりたいとか、経営陣に助言したいとか、そんなたいそうな思いはなく、この仕事だったら業種も職種も限定しなくて済む、その点に魅力を感じた。それに、論理的思考力とか分析力とか、なにをするにも役立つ(と思える)汎用的スキルを身につけられそうな点も、大きな魅力だった。
この「将来の選択肢を狭めたくない」という思考は、わたしのこれまでの人生を支配してきた考え方である。望んでそうしているというよりも、そういうふうに家庭や学校で教育を受けてきたせいだと思っている。だから、わりと無意識のうちに、選択肢を広げておける道を選ぶ傾向が強い。
大学で理系に進んだのも、理系からなら文転できるということを知っていたからだ。一度、文系に進んでしまったら、理系に戻るのは難しい。しかし理系に進めば、そのまま理系を極めることもできるし、あとで文系に転向することもできる。両方の可能性を取っておきたかった。だから、積極的に理系に進んだというよりは、将来の選択肢の幅を狭めないために、理系に進んだ。
そのまま理系で修士課程へ進んだのも、モラトリアムを延長したいという思いが第一ではあったが、理系の場合、そのほうが就職に有利だということを知っていたからである。就職の幅が広がって、しかも社会に出る期間を2年も延長できるなら、そんなに嬉しいことはない。結局、親のスネをかじってアルバイトばかりし、暇さえあれば、ひとりカフェにこもって過ごした。むかしから効率的に振る舞うことにかけては群を抜いていたので、要領のよさだけで大学での成績はよかった。
学部時代にもすこし就職活動をしてみたが、当時からわたしには「働く」ということがよくわからなかった。お金に困ったことがない人間が、どうやって「稼ごう」という気になろうか。これは大金持ちに限った話ではなく(実際わたしの家も大金持ちではない)、総中流階級の日本の家庭に育った子どもなら、往々にして自然な感情ではないかと思う(それを堂々と主張するかはともかく)。誰よりも稼ぎたい、偉くなってあいつを見返してやりたい、というような雑草根性はない。這い上がらなければいけないような状況に置かれてこなかったのだから。クルマが欲しいわけでも、豪遊したいわけでもない。
しかし、それでも働かなければいけないという感覚はあったし、自分はとりあえず会社勤めをするのだろうという意識もあった。そういうときに、経営コンサルタントという職業を知って、「これはいい、就職活動を延長できるようなものだ」と思った。幸運にも、1社だけ、わたしのポテンシャルを見込んで採用してくれた会社があった。
唯一の心配は、コンサルタントの仕事が激務であるという点だった。働く前から、それだけが心配だった。あまり厳しい環境に身を置いてこなかったから、精神的にも肉体的にもついていけないのではないかと思った。しかし、外資金融ほどではないにしても、最初に激務と言われる職業を経験しておけば、あとがラクになっていいと思った。そこはポジティブに考えていた。
そういうわけで、「とりあえず」のつもりでコンサルタントになった。自信がなかったから、3年もったらいいほうだと、最初は本気で思っていた。実際、入社後の生活は厳しいものだった。吐きそうになったことは何度もあるし、食事が喉を通らないことも日常的だった。土日に休みが取れても、ぐったりして起き上がれないことのほうが多かった。
しかし、不思議と倒れるところまではいかなかった。倒れてもおかしくない状況まで追い込まれるその前に、わたしは「無理!」と声を上げてしまうのである。自分ではわりとギリギリまで耐えているつもりだったが、理不尽なことや耐えられないことがあると、わたしはすぐに周囲やときには本人にまで直接訴えるタイプだったので、最後までひとりで抱え込んで潰れてしまうということがなかった。体が悲鳴をあげるので、無理やり徹夜を続けるとか、そういう無茶ができなかった。寝るつもりがなくても、寝てしまうのである。仕事は、それでもどうにかなった。コンサルタントの徹夜自慢は、大嫌いだった。
体を壊したら辞めようと思っていたのに、気がついたら3年を超えて働いていた。ギリギリのところで、いつも回復してしまった。しかし、延長した就職活動に目処はついていない。
社内では、たしか3年目だったか、組織・人事領域を専門に扱う部署に所属した。とくに興味のある業種があるわけでもないのに、業種を限定してしまうのは嫌だったし、ほかのメンバーほど経営自体に興味はなかったのは自覚していた。そんなわたしが、マーケティングの専門家や財務の専門家になれるだろうか。ほかのメンバーのように、「戦略」という言葉への(嫉妬にも似た)妙な憧れもなかった。
そんなわたしにとって、「人」という切り口から課題を解決しようというアプローチは、とても興味深く思えたし、実際やってみても、おもしろい仕事だった。「人のこと」というフワッとした曖昧な概念・複雑な関係を論理的に解きほぐしていく作業は、想像以上に困難で辛酸を嘗めたが、数字だけを見て論理的に分析する仕事よりも、人間じみていておもしろかった。上司や先輩にも恵まれた。
それでも、経営というものに心の底から興味を持っているわけではないことは、自分では薄々気づいていた。気づいていたが、興味のあるフリをしていた。それに、「知的な水商売」としてのコンサルタントに、馴染みきれていない自分もいた。コンサルタントの仕事は、サービス業である。お客に気に入られてナンボの世界である。ミーティングの場で、いかに相手を心地よくさせるか。名前が売れて、指名が入って、次もお願いしますと言ってもらえなかったら、いくら知的だろうが正しいことを言っていようが、商売にならない。しかし、わたしは客先で自分を演じることが苦手だった。思ってもいないことを口走るような真似ができなかった。
わたしが仕事をしていて喜びを感じる瞬間も、ちょっとほかのメンバーとは違うようだった。だいたいコンサルタントというのは、「お客様に喜んでいただけた瞬間が至福のときです」というようなセリフを雑誌や新卒採用の場で言うが、本当にそうか?とわたしは思っていた。わたしには、複雑なものをシンプルに表せた瞬間、そしてそれをもっとも美しくパワーポイントに描き落とせた瞬間、そういうときの自己満足感のほうがよほど強かった。
あるいは、「組織を変える」ということに並々ならぬ情熱を注ぐメンバーも多かったが、わたしには、クライアントの組織全体を自分ごととして把握するだけの想像力や構想力が足りず、どうしても視野が狭かった。組織が変わることよりも、普段接している現場の人が喜んでくれるほうが、わたしの喜びであった。わりと卑近にしか、物事を考えられなかった。
これでは、この先、マネジャーになり、パートナー(役員クラス)になっていくことは難しいと思った。組織内ではけっこう評価してもらい、それなりに期待もされたが、ジュニアスタッフからシニアスタッフになるための大きな壁を必死で乗り越えたあたりで、「もういいかな」という思いが芽生えてきた。
入社後の低迷期間を経て、上司や先輩にグッと能力を引き上げてもらい、「できる感」が生じてきた。それで、5年目あたりになると、だんだんと調子に乗るようになってきた。それまでは、日々グングン成長している実感が自分にはあったが、その頃には「仕事はきつくないが能力の伸びは停滞している」という状態が自覚できるほどだった。このままダラダラ過ごしていたら、時間が経つほど逃げ場がなくなる。コンサルタントとして身を捧げる覚悟ができていれば、それでいいだろうが、自分はそうではない。だったら、道を変えるには早いほうがいい。
さすがに、次の大きな壁を迎え撃つだけの気力は、いまの自分にはとてもない。もうちょっと、もうちょっとと、自分を騙し騙し歩んできたコンサルタント生活は、「とりあえず」で就職した人間には、そろそろ限界だった。この道一本でやっていくという本気の覚悟がないと、コンサルタントという特殊な職業は続けられない。
実はそれ以上に大きな問題があった。これは入社したときから感じていた、会社・組織に対する不満である。コンサルティング会社のくせに、自分たち自身をコンサルティングできていない。わたしがいた会社・組織に限った問題ではないかもしれないが、まさに医者の不養生、紺屋の白袴。入社したときから、それがいちばんの不満だった。特にわたしが所属していた組織・人事領域は、誰よりも人事考課やメンタルケアなどがきちんとできていてしかるべき人たちの集団である。客に「こんな人事考課をやっていては部下はついてこない」と言いながら、自分たち自身ができていないという自覚や恥ずかしさはないのか。人に対する感度が弱くて、どうして人事コンサルタントを名乗れるのか。ずっと持ち続けていた組織への違和感だった。旅立ってすぐに書いたら愚痴が多くなると言ったのは、この部分である。
だんだんと自分がその状態に染まっていくのが、本当に嫌だった。いつも「まだ違和感を覚えるから染まっていないはずだ」と自分の状態をチェックしては、もう少しがんばってみようと思った。不満を言うだけでなく、組織を変えようといろいろと自分なりに努力もしたつもりだが、わたしの力量では組織の変革までは及ばなかった。力不足だった。組織内で不満を言い続けるのはよくない。染まる前に辞めようと思った。
辞めるのは全然かまわないが、さて次は何をしようか。こんな状態で転職活動をして、よい結果が得られるだろうか。とりあえずと思って1社受けてみたら、「能力があるのはわかるが、次のステップへの踏み台として考えているように見える。我が社に定着するイメージがない」という返答が来て落ちた。その通りだった。定着する意志があったら、もっと早く受けている。こんな漠然とした思いのままでは、転職は無理だ。そう思っていたとき、ふと友人の友人が世界一周旅行をしたという話を聞いた。
それから、会社を辞めて世界をまわるという妄想に取り憑かれた。わたしには物欲もそれほどないし、あまり「これがしたい」という強い欲求もない。強いて言えば、心穏やかに暮らしたいとか、カフェでぼーっと過ごす時間がたまらなく好きだとか、そういった程度である。しかし、旅は好きだ。稼がなくても生きていけるなら、いろんなものを見て、いろんな本を読んで、いろんな知見を深めて、いろんな刺激を受けて暮らしていたい。
旅に出て、異質なものの刺激をいっぱい受けながら、自分のやりたいことや生き方について、ゆっくり考えてみるのも悪くないと思った。刺激が異質であればあるほど、自分という存在が際立って浮き上がるのではないかと思った。
わたしはむかしから、自分に似た人が嫌いである。たとえば同年代よりも、ずっと年下や年上のほうが話しやすい。同じであるということは、小さな差に目が向いて、その小さな差をすごく大きなものとして捉えてしまう。それで嫉妬してみたり、自分を卑下してみたり、いろいろとよくない感情に惑わされる。大学時代は、同じ理系の仲間よりも、文系の人やまったく違う経歴の人とつるんでいたかった。コンサルタント時代は、コンサルタントにはあまり会いたくなかった。同じ思考をする人はつまらない。
5年間、一応自分なりには仕事最優先で、全力を尽くしてやってきたつもりである。調べてみると、これまでに貯めたお金で充分、世界をまわれることがわかった。自分へのご褒美に、1年間の休暇をプレゼントするというのも悪くないと思った。5年働いて1年休む。そんな生き方ができたら、それこそ理想だと思った。今後のことは、1年のあいだにゆっくり考えよう。29歳という年齢も、わりと影響した。30歳になる前に、という思いはたしかにあった。
わたしはこれまで、経歴上は無駄なく人生を送ってきた。浪人も留年もしていない。修士課程の2年間は余計だったかもしれないが、経歴上は無駄になっていない。隙間のない履歴書が書ける。ずっと決められたレールの上を歩いてきたようなものだ。他人から見たら、優等生に見えるかもしれない。しかし、自分の生き方に100パーセント満足しているかと問われたら、うーんと唸ってしまう。この漠然とした不満、満たされていない感じは何だろうか。
レールの上をまっすぐ外れることなく歩いてきたから、どうしても同じレールを歩いている人と比較してしまう。自分はいま社会人5年目だから、このくらい成長していなければならない。あと何年でこのくらいのスキルを身につけていなければならない。同期のなにがしは優秀だから早く偉くなりそうだ ― そんな思考に何の意味があるだろうか。しかし、レールの先頭は、つねに競争である。わたしはそれほど強くないから、嫌でも先頭を意識してしまう。
そろそろ、一回道を外れてみてもいいかもしれないと思った。一度道を外れて遠回りしたら、もっと気楽に生きられるかもしれない。それに、会社でも有名人でも「この人はおもしろい」とわたしが思う人は、たいていどこかで回り道をしている人が多かった。そういう回り道の経験が、その人の人生を豊かにしているように思えた。最短でレールを走っても、つまらない人間になって終わるだけではないか。
「無職になる」 ― 新しいチャレンジとしては上出来だと思った。5年目が終わろうとして、有能感に満ちて、調子に乗っていた時期だからこそ、いまなら決断できると思った。それでも、辞めるには勇気が必要だった。いや、辞める意志は固まっていたが、なかなかまわりに言い出せなかった。普通は次の職場を決めてから辞めるのに、「辞めます。でも次は決まってません」と言うのには、相当の勇気が必要だった。わたしの性格を知っている人なら仰天するだろう。それに、わたしはまだちょっと迷っていた。
そんな折、年末年始に妻の親戚に会い、そこで義叔父から「ウメサオタダオ展」を勧められた。民族学者・梅棹忠夫は『知的生産の技術』しか読んでいないが、義叔父の話を聞いているとおもしろそうだったので、さっそくお台場の日本科学未来館へ足を運んだ。
その展示会で見た彼の業績の足跡はすばらしいものだった。世界中を自分の足で歩きまわり、仮説思考と実地調査を繰り返しながら、独自の理論を組み上げていった。その精力的なフィールドワークの成果をつぶさに見て、迷っていたわたしの心が固まった。
頭でっかちな自分を捨てて、世界をまわってみよう。もっと身体で感じ、もっと全身で考えてみよう。朝から晩まで丸の内の一部屋にこもって過ごす生活はもうこりごりだ。頭だけ使っていても思考はひろがらない。理論と実践、左脳と右脳、頭と身体 ― それらを自在に行き来して思考をひろげていく梅棹忠夫が、実に格好よく見えた。わたしはむかしから、こういう領域を超えて学際的に活躍する人に憧れを抱いてきた。選択肢を狭めたくないのも、そういう憧れがあるからだ。できることなら、とことんジェネラリストを極めたい。そこから、新しい何かを生み出したい。そんな思いを持っていたなあと、この展示を見ながら思い出した。
そういうわけで決心が固まって、勇気を出して上司に話し、それでいまこうして旅をしている。先ほど、決められたレールの上を歩いてきたと書いたが、こうやって書いてみると、わたしはいつも、その場その場でやりたいことをやってきたようにも思う。わたしはまあ器用なほうだし、外面をよく見せたいタイプだから、結果的にレールの上を歩いているように見せていただけかもしれない。自分の感情には、わりと正直に生きてきたつもりである。
辞めることを話した際、大勢の上司や先輩から「お前ほどコンサルタントに向いているやつはいないのに、なんで辞めてしまうのか。もったいない」と言われた。こう言ってもらえるのは、本当にありがたいことである。しかし、わたしからすれば、「コンサルタントになったから、コンサルタントにふさわしいスキルを全力で身につけた」だけのことだと思っている。もちろん、基礎的な素養の部分で、自分は向いていると判断した。だからコンサルタントを志望した。しかし、あたかも先天的に向いていたように言われるのは、ちょっと違うと思った。もし仮にわたしが営業になっていたとしたら、営業のスキルを必死で身につけて、「営業に向いている」状態を作ったと思う。それほどに、わたしは自分が「コンサルタント」にふさわしくなるよう、全力でスキルを身につけ、全身全霊を傾けて「コンサルタントとは何か」を考え続けてきたつもりである。その程度の自負はある。
わたしは、なににでもなれると思っている。いまだにそう思っている。いまから医者になりたいと思ったら、全力で努力してなれると思っているし、弁護士になることだって、あるいは乞食になることだってできると思っている。ただ、そうなりたいと思っていないだけである。わたしに決定的に不足しているのは、「こうしたい」「ああなりたい」という強いパッションであろう。強いパッションがなければ、道が決まらない。これは生きていく上で、けっこう致命的である。
だから、本当は無職になって旅をして、日本に帰ってみたら職が全然なかった、という状態を自ら作り出したいのかもしれない。そうやって強制的に年齢や経歴で選択肢を狭めざるを得ない状況に持っていかないと、いつまで経ってもわたしの食い扶持は決まらない。「なににでもなれるが、なににもなれない」で終わってしまうのではないかという漠然とした危機感が、常にある。
このようにして、わたしは世界旅行(世界「一周」にはこだわっていない)に出かけることになったが、結局、この世界旅行というのも、どこか1か所の国に留まるのではなく、「ぜんぶ見てみたい」という発想なのである。理系を選んだとき、コンサルタントを選んだときと、同じ発想なのである。どこまでいってもわたしは欲張りで、とにかくぜんぶをさらっとでもいいから見てみたいと思っている。1か所に深入りしてしまって、ほかへ行く選択肢がなくなってしまうのが、こわいのである。また同じ発想で動いているのだ。わたしはいつになったら、1本の太くはっきりとした道を、迷わずに歩いていけるようになるだろうか。
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結局、2時間半も書き続けてしまった。一気に書き下したので、ずいぶん冗長で読みにくい文章になっているかもしれない。しかし、嘘は書いていないつもりである。だから、あえてこのままの形で残しておきたい。不足があれば、また別途書くようにする。
わたしはいつも書くことで自分自身を把握してきた。書くことでこんがらがったややこしい感情を整理してきたし、自分について書くという行為自体が心の充足をもたらしてきた。書くことを生業にできたらどんなにいいだろうかと、最近つくづく思うのである。
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