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広川町のむかし(鎌倉時代)

本編に入る前に…。
「有田地方と広川町のむかし」(昭和57年発行)は外江素雄先生が広川町の郷土史を小学生向けに綴った書籍です。当時2000部ほどしか発行されず、地域の図書館にも貸し出し本はありません。しかし、この本の内容は地元住民でも知らない地域の伝統文化や地名の歴史が記載されており、非常に貴重な資料となっております。我々郷土史プロジェクトのメンバーがこつこつとデジタル化を行いました。承諾いただいた外江先生、協力してくださった皆様に感謝申し上げます。


守護(しゅご)

 源頼朝が鎌倉にひらいた幕府(武士が国内の政治をとる中心地で将軍のいる所)と、京都の朝廷とはたがいに全国を二分するほどの強い力を持ちました。

 幕府は、地方の国には「守護」をおき、荘園のとりしまりや年貢を集めるためには「地頭(じとう)」をおきました。

 紀伊国の二番めの守護は、和泉国(いずみのくに)も兼ねて佐原義連(さはらよしつら)が任命されました。彼は一ノ谷「ひよどり越え」でまっ先に敵の陣地にきりこんだ手柄(てがら)をかわれたのでした。

 しかし、彼の死後「承久(しょうきゅう)の乱」まで、正式には守護はほとんど紀伊国にはおかれることはありませんでした。

 いったいどうしてなのでしょう。

 承元(しょうげん)元年(一二〇七年)十月、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が熊野詣(もうで)をした際、義連(よしつら)は守護という地位から、上皇の一行に対して駅家(うまや)(宿泊所)の世話やさまざまな雑用をしたことがありました。

 後鳥羽上皇といえば、のち「承久(しょうきゆう)の乱」で鎌倉幕府を倒そうとして敗れ、隠岐ノ島(おきのしま)に流された人です。

 この乱までは、関西地方は朝廷の力の方が幕府を上まわっていて、幕府は「紀伊国は上皇の熊野詣(くまのもうで)があるので、」という理由でしたが、実際は守護をおけない状態でした。

 湯浅党は最初から幕府より地頭に命じられましたが、紀伊国全体では、まだまだ地頭も幕府の思いどおりにはいかなかったのです。



湯浅党の実力者、宗光(むねみつ)

 在田(ありた)地方では、湯浅一族が宮原庄をのぞくほとんどの庄の地頭になりました。父宗重のあとをつぎ湯浅一族をひきいたのは次男の宗光でした。彼はその屋敷を現在の金屋町糸野(いとの)、有田市星尾(ほしお)におき、保田庄、田殿庄、石垣河北(いしがきかほく)庄、阿氐(あて)河庄などもっとも広い荘園の地頭職を幕府から受けました。

 鎌倉時代になると「比呂」は「弘」という一字が多く使われるようになりました。

弘(ひろ)庄の地頭、弘弥太郎(ひろやたろう)

 弘庄には上の図のように宗重の子、宗正が地頭になってやってきました。

 彼は「弘弥太郎(ひろやたろう)」と名のり、弘の平野のまっただ中に大きな屋敷を造り、家来の武士とともに住みついたようです。

 では、それはどのあたりなのでしょうか。

 南金屋(みなみかなや)から東中(ひがしなか)にまたがるあたりには「上堀ノ内」「下堀ノ内」「堀ノ内」と呼ばれる地名がつながっています。

 ここが、おそらく弘弥太郎の地頭屋敷あとではないかと思われます。

 「堀ノ内」と呼ばれる土地は、鎌倉時代ごろに土豪(地方でたいへん多くの土地をもった者)の屋敷のあったところでたいていまわりには堀があって、その内側に高いへいや土手を築いていたといいますから、やはり弥太郎の屋敷もそんなふうであったかも知れません。


「門田(かどた)」と「双六殿(すごろくでん)」は語る

 弥太郎の屋敷あとと思われる広大な堀ノ内の西に接して、「門田」「双六殿」という地名があります。 この地名に注目してみましょう。

 当時の大体の土豪は屋敷の門の前やその付近に、まったくだれにも税をおさめなくてもよい完全な私有の田を持っていて、この田のことを「門田(かどた)」と呼んでいました。

 門田は土豪の勢力のみなもととして特別重要な田であったのです。
そのとなりに「双六殿(すごろくでん)」というおもしろい土地があります。

 鎌倉時代、武士の間にすごろくがたいへんはやったそうです。弥太郎の屋敷、堀ノ内にいる家来の武士たちがここですごろくトバクをしていたようすが浮かんできます。


弘八幡神社(ひろはちまんじんじゃ)、源氏の氏神

 弘八幡神社が鎌倉中期、一二五八年八月五日に霊厳寺(れいがんじ)とともに焼けたという記録があります。

 この神社はいつ頃、だれによって建てられたのでしょうか。

 源氏の支配がおこなわれるようになってから、源氏の氏神(一族の守り神)として八幡神の信仰が高まり、各地の御家人などの間で八幡神社を建てることが多くおこなわれました。

 現在、上中野にある広八幡神社の社(神をまつる建物)が最初に建てられた時期を考えると、これは、時の弘庄の地頭弘弥太郎(ひろやたろう)(湯浅宗正)の命令によるものではなかったかと想像されます。

 弥太郎は自分の堀ノ内の屋敷のすぐ上に八幡神をまつって源氏の御家人であることを周囲にほこったのかもしれません。

 田中重雄先生は広川町誌に次のように書いておられます。


<挿話>

 湯浅一族のもととなった湯浅権守宗重(ごんのかみむねしげ)は平安時代末に田村(たむら)の国津神社の神をよびよせて、湯浅の地に顕国神社を建て一族の守り神とした。まだ、宗重が平氏の家人(けにん)となる以前である。平氏がほろびたあと、宗重は頼朝(よりとも)に特別のはからいで御家人に加えてもらうことができた。彼は深くその恩義を感じたことだろう。

 頼朝は鎌倉に幕府を開きその地に鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)を建てたほか多くの八幡神社を建てたのであるが、その影響は御家人や諸国の武士の間にひろまった。

 そのような時、宗重が八幡神社を建てようとしたと考えても不思議はない。

 しかし、湯浅にはすでに顕国(けんこく)神社をまつっている。

 そこで彼は次男の宗正(むねまさ)のいる弘庄の地に八幡神をおこうと考えたとみられるのである。あるいは、それは宗重ではなく弘弥太郎宗正(ひろやたろうむねまさ)自身の考えであったのかも知れない。 (原文をやさしい文に直しました。)




神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説が付け加えられた津木の八幡神社

 現在、津木には前田に「津木八幡神社」と中村に「老賀(ろうが)八幡神社」の二社があります。いつ頃に造られたものかを判断する記録は残っていない今の時点では、「弓矢八幡(ゆみやはちまん)」と呼ばれるほど武士全体の守り神として信仰されて地方に広まった時代 鎌倉時代を考えることがもっとも可能性が高いといえるでしょう。

 この二つの八幡神社には次のような伝説があります。

 「四世紀後半神功皇后(じんぐうこうごう)(オキナガタラシヒメ)が朝鮮征伐(せいばつ)の帰り、日高郡衣奈(えな)に上陸し、寺杣(てらそま)で一泊し前田の六本木という所に移られたという。その後、皇后の泊られた地に「御幸之宮(ごこうのみや)」を建てたが、平安時代前期に前田に移し八幡神社とした。(または、中村に移し老賀(ろうが)八幡とした。)」

 実在性のうすい神功皇后の話がどうしてこの地にのこっているのか、これは、江戸時代を通して、紀州藩が地方の有力な家に対し祖先の系図を提出させ、「地士(ちし)」という特別のあつかいをしたことに関係しているのかも知れません。

 では、津木の八幡神社を建てた当時の中心人物はだれなのでしょうか。田中重雄先生は、前田の地にある津木八幡神社は鹿ヶ瀬氏が、寺杣の地には当時の公文職(くもんしき)(公(おおやけ)の文書をとりあつかう役人)の椎崎(しいざき)氏がいて老賀八幡神社を建てたのではないかと考えておられます。


寺杣にあった老賀八幡神社(ろうがはちまんじんじゃ) その場所はどこか

 約八百年も前のこと、当時の記録も見当らない今になってその場所を推定することはたいへんむずかしいことですが、少ない手がかりをもとに考えてみました。

 一、椎崎氏の屋敷の近くにあったと思われること。
 椎崎氏は公文原(くもんはら)と呼ばれる地に住んでいたことはまずまちがいないので、八幡神社があったとすれば公文原地区内がもっとも有力である。

 二、「老賀八幡縁起」書に「寺杣地区の見晴らしが悪いので、津木中村にうつした」という意味のことが書かれている。しかし、盆地である寺地区の中で公文原は三方を見晴らせる一等地である。この地区で見晴しの悪い所は、とみると前の地図でわかるように、滝川原(現在の滝原)へ向う谷あいではないかと考えられるのである。 この谷のどこかであるなら、現在地(上津木中村石塚)よりもずっと見晴しは悪いといえる。

 三、この谷にある人家のうち、一番奥には小山さんという家がある。聞けばずっと昔からこの場所にいたという。この場所は昔から「おやま」と呼ばれていたのではないか。

 というのは八幡神社の社殿や寺院など特別にあがめられた山のことを「おやま」とか「みやま」とか呼ばれることがあるのである。

 現在の小山さんの家のあるあたりは、鎌倉時代、「おやま」といい、ここに老賀八幡がまつられていた可能性があると考えるのです。

 いくさに出陣する朝、津木の男たちは手に手に弓矢を持ってこの老賀八幡神社の境内に集合し、勝利のおいのりをしたことでしょう。


「寺柚(てらそま)」は、由良(ゆら)・興国寺(こうこくじ)の寺領

 「寺杣(てらそま)」という名前は、お寺が持っている山林のある土地をさす言葉でした。 ここは、当時「西方寺(さいほうじ)」と呼ばれた由良の興国寺の領地となったためにこの地名がつけられたのだと記録に記(しる)されています。

 西方寺は鎌倉幕府三代将軍実朝の遺骨をとむらおうとした家来の葛山五郎景倫(くずやまごろうかげとも)によって建てられました。彼がこの寺を建てられたのも、実朝の母、北条政子から由良庄(ゆらしょう)の地頭をさずかったからでした。

 そうすると、津木は興国寺のある由良庄にはいるのではないかとも思えますが、当時、有力な寺社などは荘園外であっても寺領をもっていた例が多くあったということです。

 さて、この寺の小盆地は、古くから田畑が開けていたとみられ、そのもっとも良田(りょうでん)のある所は公文原(くらんばら)という地名がつけられています。ここは寺杣地域三方を見おろす台地にあり、代々興国寺の公文職(くもんしき)として津木全体をとりしきった荘官(しょうかん)椎崎氏一族の屋敷のあった所であることは先にみたとおりです。


土豪、椎崎家を興したのは権蔵(ごんぞう)という人物か

 新しく田を開き、それに名前をつけた田のことを「名田(みょうでん)」といい、その持ち主は「名主(みょうしゅ)」と呼ばれました。名主は、その土地の人に貸して税をとって暮していました。

 平安時代後期に発生した武士の多くはこの名主となっていたといわれます。

 鎌倉時代になると、名主(みょうしゅ)は幕府から特別に定められたいろいろな負担が重なってきました。

 由良(ゆら)には檜(ひのき)、杉などの板を薄くしたもので器をつくる曲げ物師が多くいて、熊野街道を行く旅人の用をたしていたといいますから、この地区でも同じ仕事をする人もいたでしょう。

 公文原(くもんばら)の台地の南半分は「権蔵原(ごんぞうばら」という地名がつけられています。これは、まさしく、権蔵(ごんぞう)という名主(みょうしゅ)がいたことを証明しています。さらに、この一等の良田地域に田を開き所有できる者は、また、寺杣地域(てらそまちいき)でもっとも勢力のあった者でもあったはずです。

 開いた田に本人の名前をつけることは、奈良時代中期(七四三年)に始まったのですが、権蔵(ごんぞう)はいつの時代の人なのでしょうか。

 権蔵によって公文原台地は田に開かれたとすれば、公文原の主(ぬし)、椎崎家を津木一番の土豪にまで興した人物はこの権蔵ではなかったでしょうか。

 椎崎家が由良の興国寺(当時、西方寺)の公文職(くもんしき)を受けたのは鎌倉初期、安貞(あんてい)元年(一二二七年) とみられ、そのころすでに相当な土豪になっていたのですから、権蔵の生きた時代は、それよりずっと昔、平安時代にさかのぼるのではないかと思われます。


 「自分が死んだあと、もしこの石のことを心にとめてくれる人がいなかったら、飛んで帰れよ、鷹島の石」

 この歌を詠んだ人は高弁(こうべん)という華厳宗(けごんしゅう)の僧で、「明恵上人(みょうえしょうにん)」という名前で知られているんです。

 上人(しょうにん)は、仏の修業をするために二度も鷹島にわたり、シャカの生まれたインドをしのんで海岸にあった小石を持ち帰りました。

 鎌倉時代を代表するこの有名な僧は現在の金屋町歓喜寺(かんきじ)、当時の石垣河北庄(いしがきかほくしょう)に生まれました。母は湯浅宗重の娘でしたので、九才の時、山城の国(現在の京都府)高雄山の文覚(もんがく)のもとで出家(僧になること)し、湯浅一族の支援を受けて郡内各地で修業を続けました。

 のち、時の実力者北条泰時(やすとき)の厚い保護のもとで、浄土宗の広まりをおさえ、古い奈良仏教を興(おこ)すことに一生をささげました。


<挿話> 
「熊野詣道中記(くまのもうでどうちゅうき)」

 鎌倉前期に藤原定家(ていか)という人が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)につ   いて熊野三山へお参りしました。これはその時の日記の一部をやさしく書きなおしたものです。

 十月一日、後鳥羽上皇は熊野詣に旅立たれる前の行事として、身をきよめる(精進)ための建物におはいりになられる。

 十月五日、晴れ。朝早く出発。私は輿(こし)に乗る。

 十月九日、藤代(ふじしろ)(現在の海南市)の宿を出るのがたいへんおそくなる。藤代王子社の前でお経の供養(王子社の神にお経をささげること)があると聞いたので、いっしょにそれに加わろうと向ったが、なんと道も見えないほど大勢の人が出ている。
 どうしてもお経を上げなければならないとも思わなかったので私はうまく通りすぎて先を急ぐことにする。五体王子(王子社の中で特別につくられた五王子社)では相撲をするということなので、あんなに大勢人が集っているのもそれを見るためかも知れない。
 藤代の坂道の急なことと、まったくあぶない思いをした。

(略)

 糸我(いとが)の山を越える。
山をおりるとサカサマ王子社があった。変った名前なので聞くと、川の水が逆に流れることがある所なのでこの名がついたのだという。しばらく行くと今晩の宿になっている湯浅についた。

 三、四百メートル過ぎた所にある小さな家に入いる。もう少し先に今夜泊る予定の家があったのだが、その家主が今宿泊の準備をしているところだと聞いたので、いったんこの家に入ったのだ。前々から、今夜泊ることは伝えてあるはずなのに、まだその用意ができていないとはまったく腹がたつ。 しかし、この男は前からよく知り合ったなかなかかしこい男だと供の者がいうので気持ちをおさえる。

びっくりぎょうてん

 ところが、この家で休んでいる間に、この家の主が七〇日ばかり前に亡くなったことを聞き、びっくりぎょうてん、大さわぎしてその家をとび出す。

 人が死んだ家はけがれているといわれるのに。案内をしてきた先達(せんだち)は「これくらいでは けがれはない。」というがそうはいかない。すぐに私たちは水をかぶり、おはらいをさせる。しかし、まだ納得できないので、湯浅の浜辺まで行き海の潮水で垢離(こり)(身をきよめるために水で体を洗うこと)をとる。いや、まったく思いもよらない目にあったものだ。
 しかし、この時に見た湯浅の入江の松原は実に美しいながめであった。

 十日、夜中より降り続く雨はまだ止まないが、夜明け前、湯浅の宿を出る。しばらく行くと、久米崎(くめざき)王子があるという場所にきたが、道から離れているということなので、先達(せんだち)が道ばたにある大木を拝んでいけばよいというのでそのようにする。

 次に井関王子にきたところで、ようやく雨がやむ。しかし、まだ夜は明けず暗い道をひたすら行く。 やがて、河瀬王子にきておまいりする。

 さて、いよいよ鹿ヶ瀬山にさしかかる。聞いていたとおり、すごい急な山道となり、輿を背おう男たちも息も苦しくよじ登る。

 大きな岩や石も昨日の藤代の坂道を思い出すほどである。私の輿をかついでいる人夫たちはいっそう苦しそうであった。

 やっとのことでこの山を越え沓掛(くつかけ)王子のある所に出る。シイの木がうっそうと繁るせまい山道を行く。

(略)


雨風の中を・・・・・・強行軍

 二〇日、那智の宿。夜明け前よりすごい雨が降る。タイマツが使えなくなったので明るくなるまで待つ。

 雨ますます注ぐように降る。雨風の中、出発。道せまく、笠もかぶれぬほどで簑(みの)をつける。すごい雨風のため輿の中はもう水びたしでまるで海の中に座っているようだ。

 一日中急な山道を暴風雨にさらされながら進み、体の弱い私は寒さとつかれで意識もうろうとなる。こんな苦しい目に今まであったこともない。


昼も夜も・・・・・・帰りは大急ぎ

 二十二日 まだ夜も明けない暗がりの中、近露(ちかつゆ)(現在の中辺路町)の宿を発つ。

 田辺には夕方到着し、食事のあと休むひまなく出発する。すでに日は暮れ夜道を急ぐ。切目を過ぎ、夜中の二時頃に岩内(いわしろ)に着き、ようやくここで泊る。明日は来た時の宿三つを通過しなければならない。やれやれ、もう体はクタクタにつかれた。


本宮(ほんぐう)から湯浅まで・・・・・・なんと三日

 二十三日 晴れ。日が出てから岩内の宿を出る。 日高川をわたり小松原を過ぎ、急な鹿ヵ瀬の山道も過ぎて、午前十一時には湯浅の宿に着く。

 ここは来る時、じつにいやな思いをしたことがあった所だが、この家の五郎という男、われわれの宿の用意のしかたもまったくいいかげん。しかも無礼なやつだ。立派な男だと聞いたがとんでもない。腹が立ってたまらない。

 あまりの強行軍が続いたのでもう体がもたない。 午後からずっとこの宿で倒れるように眠りこむ。




弥太郎(やたろう)の悲しい最期

 鎌倉時代の前半は、鎌倉には武士がたてた幕府と、京都には天皇を中心とする貴族の政権・朝廷があって、たがいに力を競っていました。

 しかし、後鳥羽上皇が幕府をたおそうとしたことから起った「承久(じょうきゅう)の乱」(一二二一年)によって、敗れた朝廷側の力はまったく弱められてしまいました。

 この乱で、源氏の御家人(直接の家来)であった湯浅一族の者は幕府軍として戦ったのですが、ひとり弘庄地頭弘弥太郎 (湯浅宗正)だけは朝廷の側にはいって戦ったのです。

 どうして、弥太郎ひとり別行動をとったのでしょう。

 後鳥羽上皇が熊野詣をひんぱんにおこなったので、その世話をしていて特別なつながりができたものか、弘庄の領主である高倉家が朝廷側の中心であった関係からか、二手にわかれて戦うことによって湯浅党のほろびることをふせごうとしたからなのか、いろいろな理由が考えられます。

 圧倒的勝利をおさめた幕府軍はさっそく、朝廷側に味方した者の領地をとり上げ、ほとんど殺してしまいました。

 地頭として堀ノ内に広い屋敷をかまえて強い力をふるった弥太郎もその最期はまことにあわれ、京都・二条河原の露となって消えたのでした。おそらくその時、弥太郎の家来や家族たちまでも彼と同じ運命をたどったことでしょう。

 弘庄の地頭の職は、そののちだれがひきついだのか今のところほとんど手がかりはありませんが、湯浅氏以外から任じられたということを示す記録が残っています。


「殿(との)」は地頭のいた土地か

 広川町には、地頭屋敷あとと思われる場所が堀ノ内のほかにもう一か所あります。 それは「殿」と呼ばれる土地です。

 「殿」という地名からして、いかにも昔の殿さまに関係ありそうですが、ここにはまた「土井(どい)」という小字(こあざ)があります。

「土井(居)」という地名も堀ノ内と同じように土豪とか地頭などがその地域を支配するほどの人が住んでいたところだと言われています。

 この殿地区の農家からは、鎌倉時代にまでさかのぼれるような古いつぼがいくつも見つかっています。

 これは他の地区ではみられないことで以前から不思議がられていました。

 また、このあたりはどこにでもみられるような農村なのに、土井の近くには「町通り」「南通り」「中通り」「北通り」などの呼び方が残っているのも、何か昔、このあたりに人家が多く集まっていたのではないかと考えられます。

 下の絵は今も岸和田市に残っている畑中家の地頭屋敷から殿地区の地頭屋敷を想像して描いたものです。


割れていく地名

 鎌倉時代も中頃になると全国の荘園には地頭がおかれ、荘園領主にかわって年貢をとりたてました。

 ところが、現地にいる地頭と京都などにいる領主の間に争いがたえまなくおこるようになりました。地頭はなんとかして領主の手から荘園をうばおうとしたからです。

 そこで、争いの解決方法として幕府は荘園を地頭と領主で半々ないし一対二に分け、たがいに口出ししないことにしました。これを「下地中分(したじちゅうぶん)」といいます。

 広川町内の小字地名を調べてみますと、下地中分(したじちゅうぶん)がおこなわれたために地名がわかれたのではないかと思われる地名がいくつかあります。

 しかし、地名が分れたのは、下地中分よりもっとほかの理由も大きかったのです。

 鎌倉時代の武士団は「惣領制武士団(そうりょうせいぶしだん)」といわれ、一族の長が身内の者に土地をわけ与えて、その一族をひきいて戦いや公の仕事を分担させたりしていました。 このように土地を分けることを「分割相続(ぶんかつそうぞく)といいます。

 この分割相続があるたびに地名も二つに分けられて呼ぶようになったことも多かったのです。


「消えた大池」と光明寺(こうみようじ)

 西広の池ノ上地区の南側にひろがる水田地域には「大池(おおいけ)」と呼ばれている所があります。このお話をしましょう。

 「ここはずっと昔、大きな池になっていて、ある時、光明寺(こうみようじ)の僧たちの考えでここが埋められた。現在の北谷池はそのかわりに造られたものだ。」といわれています。

 なるほど、池ノ上の地名もこんなわけがあったのですね。

 では、それはいつの頃のことなのでしょうか。鎌倉時代とみてさしつかえないと考えられます。

 現在の光明寺は秀吉の紀州攻めの際、湯浅の白樫(しらかし)氏に焼かれてのちすっかり小規模になったと言うことですが、光明寺がもっとも勢いのあったのは鎌倉時代でした。その寺領がかなり大きなものであったことは下の図にある関係地名などからもよくわかります。今の光明寺池もおそらく当時、光明寺側の手によって造られたものなのでしょう。

 鎌倉時代、幕府は全国の地頭に命じて多くの溜池を造らし米の生産をふやしました。いわば、この時代は溜池造りがブームであったのです。 しかし、それであってもこれほどの池を埋めたてたり造ったりする大事業をやってのけるということは、相当な経済力が光明寺にあったのでしょう。

 大池が光明寺の寺領であったという話を裏付けるものに、この地域だけが今も光明寺のある山本地区の飛地(とびち)になっていて区費も水利費も山本区へ納めているということがあります。


<挿話>
太古の広川の流れを推理する

航空写真に写った黒い筋

 下の航空写真をよく見ると、広平野の南側に帯(おび)のような黒い筋が写っています。八幡神社のあたりからはまっすぐ海へのびているようです。

 この黒い筋こそ、川の流れでできた崖(がけ)であるとみてまちがいなさそうです。これだけはっきりした崖(がけ)が形づくられるにはよほど長い期間、川の水が流れていたのでしょう。

 この筋にそって「釜ノ渕(かまのふち)」「鴨田(かもだ)」「陰ノ岸(かげのきし)」などという川の流れに関係のありそうな地名がみられます。地名からみても少なくとも今から七〇〇年前、鎌倉時代にはまだここを流れていたと考えられます。

 江戸時代前には広川の流路ではここではなく、広平野の中央部を流れて、院の馬場(いんのばば)、新田川(しんだがわ)に注いでいたことがはっきりしています。このことについてはあとでくわしくのべることにしましょう。


五メートル下を流れる

 さて、大昔の広川は流路のちがいだけでなくもっと低い所を流れていたことも考えておかなくてはなりません。

 これを証言する人がいます。

 八幡神社の鳥居のすぐ下に住んでいる人から次のような話をお聞きしました。

 「井戸を掘ろうとしたけれど、二メートル下は堅い岩盤になっていて掘り下げることができなかった。

 すぐそこの小川の流れている近くを探った井戸掘り屋さんが、五メートル下に川原石があるので、おそらく、大昔、このあたりを川が流れていたのだろう、と言っていた。」

 大昔にはこのあたりもアラカシやシイの木などうっそうと繁っていたことでしょう。


流れが変ったのはいつか

 「和歌山県災害史」で地名の残りそうな時代に起った大洪水の記録を調べると、その被害のもっとも大きかったのは、

 「一四四二年(嘉吉二年) 八月二〇日、(注、室町時代中期)暴風雨、奈良や紀伊国に五日間あれくるい大洪水おこる。熊野では仮宮殿の建物すべてくずれ、川は七つに切れ、雷落ち、小島は崩れて流れ去る。これほどの大洪水は見たことも聞いたこともない。」

 と書かれています。

 地質調査によって、やがてこのことも明らかにされる時がくることでしょう。



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