広川町のむかし(飛鳥時代)
本編に入る前に…。
「有田地方と広川町のむかし」(昭和57年発行)は外江素雄先生が広川町の郷土史を小学生向けに綴った書籍です。当時2000部ほどしか発行されず、地域の図書館にも貸し出し本はありません。しかし、この本の内容は地元住民でも知らない地域の伝統文化や地名の歴史が記載されており、非常に貴重な資料となっております。我々郷土史プロジェクトのメンバーがこつこつとデジタル化を行いました。承諾いただいた外江先生、協力してくださった皆様に感謝申し上げます。
飛鳥時代(約千四百年〜千三百年前)
人々の苦しみ、「大化の改新」
大和(やまと)では、蘇我(そが)氏とともに聖徳太子が政治をおこなうようになりました。しかし、地方ではそれほどの変化はなかったようです。
六四五年、豪族による政治のしくみは倒され、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって、天皇を中心とする社会が生まれました。
これは有名な「大化の改新」といわれるもので、地方の豪族はみな大和朝廷のもとで地方の役人にすぎなくされました。豪族のもとで働かされていた多くの人々には、今度は強制的に田がわり当てられ、朝廷にさまざまな税をおさめなくてはならなくなりました。そのほかにも、兵士になる義務や年に何日か朝廷の命令がきて働きに出なくてはならないことも多く、一般の人々にとってはたまらなく苦しい世の中になってしまいました。
地方のしくみも、唐(とう)のしくみをみならって、きっちりとととのえられました。
「熊野(くまの)」もついに「木国(きのくに)」へ
長い間、紀伊半島の南部で強い力をほこり、国造(くにのみやつこ)の紀氏も力が及ばなかった「熊野国(くまののくに)」もついに木国(きのくに)の中に組みいれられました。熊野は「牟漏評(むろのこおり)」になりましたが、その範囲は三重県の「北牟婁(むろ)郡」「南牟婁郡」もふくまれました。
有田地方は「安提評(あてのこおり)(郡)」
全国(北は山形県付近まで)は、国、評(こおり)、里(さと)(郷)にわけられ、木国の下には七つの評(こおり)と一〇七の里(さと)がおかれました。 有田地方は「安提評(あてのこおり)」とよばれました。
現在の大体の郡の範囲はこのときに決められたものです。国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)とよばれた地方豪族は、あらたに朝廷から送られてきた国司(こくし)のもとで、評司(こおりのつかさ)や里長(さとおさ)になりました。木国においてはだれが国司(こくし)であったのかはっきりしませんが、居場所は和歌山市に「国府(こくふ)」という地名も残っていてよく知られています。
われわれの阿提評(あてのこおり)の司(つかさ)は、おそらく紀氏一族から選ばれた人物がきたことでしょう。彼は英多(あた)の里であった現在の宮原の地に屋敷を建て、奥有田や湯笠(ゆかさ)(湯浅)、比呂(ひろ)(広)の豪族をも従え、朝廷に納める税をとりたてました。
条里制(じょうりせい)のあとが、今も
「条里制(じょうりせい)」とは、田をあたえて税をとる方法をしやすくするために土地を正方形にくぎって呼び名をつけたものです。
古墳時代から一部の地方でおこなわれていたようですが、この時代には広く実施されるようになりました。
和歌山市や吉備町には、はっきりそのあとが今もみられますが、県下の条里制をくわしく研究されている中野栄治先生は「広川流域にも条里制と思われるようすが残っている」と考えておられます。
広川町に残る条理制の地名
宮代(みやしろ)(唐尾)
上代(かみだい)(山本)
下代(しもだい)(池ノ上)
大野手(おおのて)(名島)
後ノ坪(あとのつぼ)(上中野)
大代(おおしろ)(殿)
大代(おおしろ)(南金屋)
横縄手(よこなわて)(河瀬(ごのせ))
野手(のて) (下津木)
地名が語りかけている古代の西広地方
時代のようすを知るうえで、西広地区ほど地名が語りかけてくれているところはありません。
下の地図を見て下さい。
「東浜(ひがしはま)」「須河(すごう)(砂浜のこと)」「浜前(はままえ)」「砂川(すながわ)」「石原(いしはら)」これらはみな、原始時代に海岸が入りこんでいたあとや砂浜や石ころの湿原であったようすをあらわしています。飛鳥時代ころのことでしょうか。
この中でもっとも中央にあるのは「身明(しんめい)」です。この頃大和朝廷は地方でもっとも稲のよく実る田を土地の豪族からとりあげて朝廷所有地「屯倉(みやけ)」としました。このあたりは地区でも一番の良田地域でもあるところから、おそらく、この「身明(しんめい)」は「屯倉(みやけ)」のことではなかったかと思われます。
この同じころ、「恥方(はじかた)」には、土師器(はじき)という土器づくりの集団が住んでいたと思われます。
さて、時代がたち、大化の改新がおこなわれると全国の土地、人民は朝廷のものとなりました。つまり、全部の土地が「屯倉(みやけ)となったのです。それで、「屯倉(みやけ)」と特別に呼んだ田はなくなったのですが、西広には地名となって「みやけ」が残ったのです。
「馬立(ばりゅう)」という地名は、古代、運んできた物資を集めておく場所「馬立(ばだち)」からきているとすれば、奈良時代の税である祖(そ)、庸(よう)、調(ちょう)はここへ運ばれ、名草評(なぐさごおり)にある国衙(こくが)へ船につまれていったーというようすが想像されます。
「車田(くるまだ)」というのは、車を持った人たちがいたのか、金剛(こんごう)谷から流れ出る水をひいていつの時代か水車がまわっていた田なのかはっきりわかりません。でも、すぐ近くに「馬立(まだち)」があることを考えれば、税の運搬に使う車を持っていた「車持部(くるまもちべ)」という人々が住んでいたと推定するのもおもしろいでしょう。
このほか、もっとのちの平安時代のようすを物語る地名もいくつかありますが、これについてはあとでくわしくのべることにしましょう。
おしよせる朝鮮の難民
朝鮮半島では新羅(しらぎ)の力がますます強くなり、百済(くだら)や高句麗(こうくり)をほろぼしてしまいました。この時、国をおわれた百済や高句麗の人々が続々と日本に避難してきました。特に百済からは何万人とも数えられないほど多くの人が渡来し、朝廷ではこれらの人々に土地を与えたり、中には高い位につけたりして保護しました。
この時、朝鮮や中国の高い文化が日本に数多く伝えられ、それがもっともよくあらわれたのが大化の改新の制度であるといわれています。
彼らは木国にも入り、有田川流域にまできたことがあきらかになっています。
牟婁(むろ)の湯へ、栖原(すはら)から船出
四方山に囲まれた大和にいる天皇や貴族にとって、木国(きのくに)の美しい海岸線を通って牟婁(むろ)の温泉(今の白浜町湯崎(ゆざき)温泉)へ行くことはどんなにか心はずむ旅だったのでしょう。
六四九年には、都から熊野までの道を通りやすいように工事をするように命令が出されました。もうこのころから、熊野三山にたいする信仰が始まっていたのでしょうか。
木国の海岸を旅する歌は万葉集に多くのせられていますが、比呂や湯浅(当時は湯笠(ゆかさ)と言ったかも知れない)地方を通った歌はまったくありません。それもそのはずです。
まだ、この地方は今ほどの平野はなく、しめった土地が多くて、道は山のきわにそってついていました。
当時は糸我から白神(しらかみ)の浜(今の栖原)に出て、由良まで船に乗っていったらしいのです。
平安時代になって、熊野詣(もうで)がさかんになるころには、この海のコースよりも陸路をいく方が多くなっていきました。
<挿話>
神聖なる神山(しんざん)、大葉山(おおばやま)
大葉山 霞(かすみ)たなびき小夜(さよ)ふけて
吾船舶(あがふねは)てむ泊り知らずも
万葉集第七巻
(大葉山のあたりには、かすみがたなびいて夕暮が近づいているのに私の船はどこへとめようか、まだ今夜の泊るところも決めていないのに。)
この歌は、西広の沖を都の人が船で通ったとき、大葉山をみて詠んだ歌だとされています。
二等辺三角形をしたこの山は別名を「西広富士(にしひろふじ)」とも言われるほど目立って美しい姿をしています。
しかし、この大葉山は、美しい形をしているというだけではなく、もっと別な意味で沖を通る都人(みやこびと)に知られていました。
全国各地に「おおば」という地名がありますが、その多くは、飛鳥時代に「屯倉(みやけ)」があったほどの良田(りょうでん)地域がすぐ近くにあり、古代、その地方の中心地になっていました。
昔々、「おおば」は「神庭(おおば)」であり、イザナミノミコトをまつった所につけられた名前であるといいます。
西広にもやはり大葉山のすぐそばに屯倉(みやけ)があり、当時の広川地方の中心地であったと考えられます。
このことからこの大葉山は、昔は、土地を守る神の山として人々から特別にあがめられた山であったと思われます。
このようなことがわかれば、万葉集の歌の内容もさらに味わい深いものになるでしょう。
丹生(にゅう)一族がやってきた =朱(しゅ)と水銀の民=
古代の有田を語る時、どうしてもさけて通れないのは、丹生(にゅう)一族が高野山のふもとを根拠地として紀北・紀南一帯でさかんに活動をしていた時期があったということです。
みなさんの土地には「赤田」とか「赤坂」など"赤"という字のつく地名はありませんか。この「赤」というのは、その昔、朱(しゅ)(水銀の化合物)や天然の水銀を採り出した所の土が赤い色をしていたのでつけられた場合が多いのです。
「丹生(にふ(にゅう))」は水銀のとれる土地
古代では、これら朱(朱色)・水銀(硫化水銀)は「丹(に)」と呼ばれ、「何かあるものがよく取れたりする場所を『生(ふ)』と呼んだ。したがって丹(に)のよく取れる土地『丹生(にふ)』であった。」
(明治大学 鈴木武樹教授)
<挿話>
松田寿男著「丹生の研究」より
朱の文化は古代文化の基調であった。朱は硫化水銀(りゅうかすいぎん)にほかならない。それは縄文土器文化いらい、塗料や染料として親しまれたばかりか、銅鏡(どうきょう)の光沢面の研磨に使われ、あるいは石棺(せっかん)の充填物(筆者注、物をつめてすき間などをうめること)として、また薬用として用いられ、さらにアマルガムを利用して鍍金(ときん)(筆者注、メッキのこと)したり、黄金を精錬(せいれん)したりしていた。
それほど古代人の生活に密着していた鉱物だっただけに、水銀鉱の探究にはラッシュを呈(てい)し、その開発は全国を風靡(ふうび)し、一時は大陸にまで輸出されていたのである。
松田寿男著「丹生の研究」より
北九州、伊都国(いとこく)の流れか
丹生一族の研究においては第一者である丹生広良(にゅうひろよし)氏によれば、三世紀・邪馬台国とともにさかえた北九州の強国・伊都国がほろんだ時、その主流は続々と近畿へ東進し、紀伊で丹生一族となった、ということです。
丹生一族の根拠地は高野山のふもとの天野(あまの)とよばれる地でしたが、水銀を採ることは古代の花形産業といわれたものでしたから、しだいに現在の海草郡貴志川や有田川ぞいに丹(水銀)を求めて下ってくる一族が多くなりました。
糸我(いとが)、糸野(いとの)、糸川(いとがわ)
丹生(にゅう)氏が伊都国(いとこく)から移動してきた人々であるとする説をとれば、郡内の糸我、糸野、糸川らは、丹生族の残した地名なのでしょうか。
吉備町の丹生図(にゅうのず)、金屋町の丹生(にゅう)などはその中心集落があった土地なのかも知れません。
前田・河瀬(ごのせ)地区の古い地名「伊都野(いとの)」も水銀採掘した土地なのでしょうか。清水町・金屋町の各地には大昔、何かを掘ったらしい穴がいくつも残っているそうですが、五世紀ごろ、丹生一族がさかんに丹を掘ったあとなのかも知れません。
丹生族のおとろえ
六世紀半頃になって、急に朱をぬる風習がやまり、金メッキの方法にアマルガムが使われ出すと、丹生一族はしだいに勢いをなくしていきました。
特に大和(やまと)の豪族たちも水銀採掘にのりだしてきたため、丹生一族の水銀ひとりじめはくずれ、しだいに地方の丹生神社の司祭者などにすぎなくなっていきました。
「吉備町誌」によれば、その後、水銀の採掘にかかわったのは、吉備国(きびこく)(現在の岡山県)に関係の深い尾張(おわり)氏ではないかと想像しています。
「吉備(きび)」という町名も、その昔、尾張氏がつけたのかも知れませんね。