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乱世の生き方(2)―全員が敵になる覚悟を持った勝海舟の大局観―

■何を信じて生きるべきか
 インターネットの世界では話題となるもテレビでは一切報じられることのなかったジャニーズ事務所の性犯罪問題が顕在化し、エンタメ業界を大きく揺るがしているようです。既に広告費では2019年にインターネットがテレビを抜き(※1)、2022年にはインターネット広告費がテレビ広告費の1.7倍になる(※1)など、長い間メディアの中心にあったテレビの存在が大きく変わろうとしています。社会に大きな影響を与えるメディアの姿が変わることは歴史上の大変化といえます。
 メディアの話は国内事情ですが、国際社会との関係に目を移すと、デカップリング(経済分断)が言われる中で資源を持たない日本がどうやって資源を確保していくのかが大きな課題となっています。日本はG7諸国との連携を強化していくことは言うまでもないですが、そのG7諸国の世界人口に占める割合は10%を下回っています(※2)。つまり、G7の国際社会における存在感は次第に低下しており、日本にとってはG7諸国以外との関係も重要になるということです。
 まさに時代は乱世といえます。これまで絶対安泰と考えられていたもの、圧倒的に強力であったものが次々と弱体化していく。何か一つのものに依存していれば安泰ということはなく、次々と変化していく乱世において、我々は何を信じて生きていくべきか、乱世の時代を生き抜いた人からヒントを得たいと思います。

■勝海舟の登場
 260年も続いた江戸幕府が瓦解する。その瞬間に立ち江戸幕府の幕引き役となったのが勝海舟でした。
 勝麟太郎、号を海舟といいます。文政6年(1823年)に江戸で生まれた勝は、決して裕福な家柄ではありませんでした。しかし勝は、嘉永6年(1853年)にペリーが黒船を率いて来航した時、江戸幕府老中首座であった阿部正弘が海防に関して広く意見を求めた際に、海防意見書を提出しました。この海防意見書が阿部の目に留まったことで頭角を現しました。まさに乱世の始まりとともに歴史の表舞台に現れた人物といえます。

■現状を冷静に評価し現実に立脚して未来を描く
 勝の提出した海防意見書は、アメリカの行為は失礼であると批判したうえで、このような事態になった要因は幕府にもあると主張し、具体的に軍事制度が時代遅れになっていることを指摘しました。そのうえで、現時点ですぐにできる警備上の改善、未来を見据えて中長期的に実施すべき兵制改革、軍艦を建造できるほどの国力をつけるための工業化を進めていくことを提言しました。
 勝は、多くの人が「アメリカは許せん」と激高し外国人を追い払うことばかりを考えていた中で、アメリカだけが悪いのではなく、アメリカに付け入る隙を与えた当方にも責任があると客観的に情勢を分析し、そのうえで現実に立脚した対策として、段階的に強化していくべき未来デザインを描いていました。まず現状を正確に把握し、夢物語を語るのではなく、現実を踏まえて、理想とするゴールを描き、そのゴールから逆算して進むべき道標を示したのです。
 昨今、新しい時代の事業開発スタイルとしてオープン・イノベーションに注目が集まっています。しかし、他社と連携して事業を開発するのは相手との調整があり、なかなか上手くいかないようです。上手くいかない時、まず相手の悪いところばかり見ていないでしょうか。自分達にも非があると冷静に現状を分析できているでしょうか。新しい事業を開発する仕事では、まずは現状を冷静に評価し現実に立脚して未来を描くことが大切であり、そのためには視座を高める必要があります。
 勝が蘭学の辞書である「ドゥーフ・ハルマ」を2部筆写したのは有名な話ですが、勝は、この蘭学を勉強した時に多くの学びを得て、黒船来航時にこれだけの高い視座を有していたのではないかと推測します。

■自らの信じる道「あるべき姿」を貫くとどうなるか
 「自らの信じる道を貫く」と書くとカッコいい訳ですが、現実はそんなに甘くありません。色々な人々の多様な思惑の中で社会が構成されており、仮に自らの描いた構想が正しいとしても、それが通らないのが現実社会です。企業で勤めるサラリーマンの皆さんであれば、そのあたりは“言わずもがな”でしょう。
 勝は自らの信じる道の一つとして「海軍創設」という未来デザインを描いていました。そのために長崎海軍伝習所での学びを得て、咸臨丸で太平洋横断・渡米を実現し、神戸海軍操練所を開いて海軍人材の育成に動いていたのでした。
 しかし、勝は自らの信じる道を貫こうとして、左遷を何度も経験しています。特に、この神戸海軍操練所とは、幕府海軍ではなく、日本海軍の創設をイメージして幕臣だけでなく、諸藩からも広く人材を集めた育成の場としていました。勝は、幕府という狭い枠ではなく、日本という広い領域を見て、あるべき姿の実現に向けて動いていたのです。しかし、それが仇となり、神戸海軍操練所で脱藩浪人を抱えていたことから幕府より危険視され、同所は閉鎖に追い込まれてしまいました。肝煎りで始めた新規事業を、その成果が出る前に道半ばで取り壊しとなったようなものです。神戸海軍操練所は、トップである第14代将軍徳川家茂のお墨付きを得て始めたものでしたが、その将軍家茂が死去してしまったのです。新規事業開発を行う場合、トップの支持を得るというのは鉄則の一つです。しかし、そのトップがいなくなる、つまり、後ろ盾を失った新規事業が内部の反対派勢力によって潰されてしまうというのは、現代のビジネスでもありえる話です。
 やはり、「自らの信じる道を貫く」という生き方は、どう考えても要領の良い生き方とはいえません。少なくとも平時ではお勧めできない生き方です。しかし、乱世では状況が刻一刻と変化するのです。

■乱世では時代遅れな考え方や組織は弱体化する
 慶応2年(1866年)、幕府と長州藩が軍事的に衝突しました。所謂、第二次長州征伐です。この戦争で幕府は兵力的に長州藩を圧倒するも、幕府の旧態依然とした発想の軍制では、近代的な兵法思想を持つ大村益次郎や、様式化した軍隊である奇兵隊を創設した高杉晋作といった、先進的なリーダーを登用する長州藩を屈服させることはできませんでした。幕府にも銃で武装した近代的な様式軍隊を保有していたのですが、こうした様式軍隊の兵は身分の低い人が多いため戦場で前に出ることはなく、刀や槍を持った身分の高い武士が前面に出たために近代的な様式軍隊の長州藩に敗れたのでした。幕府軍の発想は、戦場でいかにして勝つかという戦術ではなく、伝統的な格式を重視したものだったのです。
 そして、この戦争で敗れた幕府は面目を保つために敗北を認めず、あろうことか左遷された勝海舟に長州藩との停戦交渉を任せるに至ったのです。
 組織とは、本当のところ誰が有能かは分かっているのですが、都合の悪い現実に蓋をしたい組織としては、それを開けてしまう人材を封じ込めようと動いてしまうものです。しかし、乱世ではこうした組織の保身を許さないのです。むしろ保身は逆効果となることが多いでしょう。

■みんな敵がいい
 たかが長州藩という一藩を倒せない幕府の権威は、第二次長州征伐の失敗で失墜しました。この後、諸藩はもう幕府の言うことを聞かなくなりました。裏で長州藩と同盟を結んでいた薩摩藩は幕府を完全に無視しました。
 幕末の動乱は沸点に達し、ここから大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いへと進みました。江戸幕府という公的な機関は無くなり、徳川宗家を中心とする“旧幕府軍”は、江戸で薩摩・長州を中心とした官軍に攻め込まれる立場となってしまいました。
 江戸城には既に老中もいません。最悪の状況で旧幕府の最高責任者として後始末を命じられたのが勝でした。
 勝は、海軍が健在であったことから兵力的にはまだ旧幕府側の方が優勢だから戦うべきだと言う主戦論を覆しました。確かに、短期的な戦闘では旧幕府軍に勝てるチャンスはありました。官軍には、近代的な軍艦である開陽丸をはじめとする強大な幕府海軍力に対抗する海軍力を持っていなかったのです。この海軍を活かして海上から東海道を進軍する官軍を砲撃し、幕府の様式陸軍が陸上で迎え撃つことにより挟み撃ちにすれば、官軍を撃退できるチャンスはありました。
 しかし勝は、勤王思想が定着した当時に帝(天皇)を押さえられただけでなく、バイオテクノロジーもなかった時代、温暖で経済的に豊かな西日本を押さえられた現実を踏まえると、長期戦になれば旧幕府側に勝ち目はないという判断をしていました。勝がその先に見たのは、諸外国を巻き込んだ長期戦で人々は疲弊し、勝った側を支援した外国の傀儡国家となる半植民地化した日本の悲惨な姿でした。そのため、あるべき姿として「日本を二分する内戦の回避」をゴールに設定し、そのための交渉に奔走しました。
 この時の勝は、敵である官軍側から命を狙われるだけでなく、味方であるはずの旧幕府側からも命を狙われる地獄のような状況になりました。
 この時のことを勝は、後に次のように語っています。
「誰を味方にしようなどと言ふから間違うのだ。みんな敵がいい。敵がないと、事が出来ぬ」
 全体最適を目指すというのは、全員から喜ばれる方向性ではなく、むしろ全員を敵に回す可能性があるのです。勝が描いた全体最適のゴールは「先」を視たものであり、多くの人が視ているのは「今」なのです。官軍側が視ている「今」とは、この国を長い間支配していた徳川幕府を滅亡させることにあり、和平などありえない訳です。一方で旧幕府側が視ている「今」は、主君ともいえる将軍家を陥れた薩摩と長州を許せないという思いであり、そのような相手に平伏すなどありえない訳です。
 しかし勝は、官軍側の交渉相手が西郷隆盛であるという幸運と、欧米列強の植民地になる危機感という「先」の部分を多くの人と共有できたこともあり、幕末という乱世の沸点において、無事に江戸城無血開城へと帰結させることができました。
 多くの人は今しか視ていません。しかし、その先にある危機感を一定数の人と共有できた時、「あるべき姿」の実現に向けて物事が動き出す可能性が出てくるのです。

図:勝海舟江戸開城図(川村清雄/画:江戸東京博物館所蔵)

■乱世の沸点を見極める
 「長いものには巻かれろ」という言葉があり、確かに勝ち目の無い相手に戦っても討ち死にするだけでしょう。しかし、自分の考えもなく、ただ大勢に従うだけの「世渡り上手」の生き方は、乱世では通用しないと考えます。
 自分の中でしっかりと目指すべき「あるべき姿」を持っておくべきです。しかし、常に「あるべき姿」を主張していればよい訳でもありません。
 勝海舟は、かなり危ないところでしたが、それでも結果的に生き残ることができました。それは、歯に衣着せぬといわれる勝といえども、常に好き放題に自分の考えるところを述べていた訳ではなく、乱世の沸点を見極めていたと考えます。
 勝は、黒船が来航した当初から開国論の考えを持っていたといわれますが、それを公に主張するのはずっと後のことです。最初から公に開国論を唱えれば、すぐに殺されていたことでしょう。
 しっかりと自分の考えを持ち、時が来ればそれを主張し、例え多くの人から批判を受けようとも貫き通す覚悟を持つ。
 まずは、自分の中で「あるべき姿」を描けるようになることです。そして、それを主張すべきタイミングである乱世の沸点を見極めることにあります。乱世の沸点では、それまでできなかったことができるようになる可能性があります。
 ところで、長い間テレビで報じられることのなかったジャニーズ事務所の問題が報じられたのはなぜでしょうか。同事務所の社長が発表した事実もありますが、恐らくテレビ局内で「報道機関としてのあるべき姿」を主張した気概のある武士(サムライ)が居たのではないかと推測します。テレビ局内では、報道すべきかどうかで戦いがあったものと推測します。そして、メディアとしてのテレビの存在感が低下してきている危機感を抱いた人達が「報道機関としてのあるべき姿」を主張し最終的に勝ったということではないかと推測します。乱世が沸点に達し、それまで黙殺されてきた、こうした異端の主張を封じ込めることができなくなったのではないかと推測します。
 乱世は、組織を変える、社会を正しい道へと導く、大きなチャンスでもある訳です。

※1:電通調査結果より
※2:日本経済新聞2023年5月16日記事「G7の人口、世界の1割に低下 中印・ブラジルが台頭」より
★冒頭の写真は筆者が撮影した勝海舟銅像(東京都墨田区吾妻橋1-23)

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