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「狂俳(きょうはい)」とわが祖先の地

先日、夏井いつきさんの「NHK『いつきのよみ旅!』in愛知」を視ていた。いつものように視聴者が一句を携え出演するのだが、その一人に「狂俳きょうはい」をさられてみえる方がみえた。紅紫こうしあやめさんとおっしゃるかただった。「狂俳」という言葉は確かに耳慣れない言葉だが、以前、目にしたことがあった。

2022年の5月、愛知県小牧市の河内屋新田を訪ねたときのことだ。この河内屋新田は、実は我が船橋家の発祥の地なのである。立派な、「船橋家祖先之碑」の石碑(上と下の写真)も建っている。そしてその脇に、またずらりと石碑が並んでいた。それらは近代になてからの狂俳の師匠筋の方々(だと推察するが)を記念するための石碑らしいのだ。(ずっと下の写真)

創設当時の写真。両脇に映っている人たちは創設に関わった船橋家の方たちであろうか。


ところで、狂俳ってなに?という質問があるとおもいますが、
東海樗流ちょりゅう会さま(リンクはこちら)のご説明では:

…「俳句ならだれでも知っているでしょう。しかし、狂俳とはあまり聞きなれない言葉です。俳句は季語があり、五七五の17文字でその季語を生かした句を作ります。しかしながら、狂俳は季語にとらわれずユーモアを交えて五七又は七五のわずか12文字で表現する句を作ります。まさに12文字という世界で最も短い詩と言っても良いでしょう。
この詩、言い換(か)えれば文芸誕生の地が他ならぬ岐阜市であり、岐阜公園の池のほとりには、発祥地の顕彰碑があります。
今からおよそ250年前、伊勢の俳人で三浦樗良ちょらという人が、俳句の頭五文字を題として、残り十二文字でその題を表現する遊びを考えたのが始まりであり、その面白さから狂俳と呼ばれるようになり、今日にいたっています。」…

東海樗流会ウェッブサイトより

とのこと。

故 猩猩(しょうじょう)亭睡眠翁碑

これらの石碑は大正期のものらしいが、このあたりで愛好者が多かったのであろうか?狂俳の師匠筋の方たちの石碑のようだ。

現地で、「狂俳」を知ったときは正直、(ふう~ん、そんなのもあるんだ)ぐらいにしか思わなかったが、下手の横好きで短歌を詠む私には、ちょっと縁を感じたものだ。これを機に、チョッといじってみようかなと思う今日この頃だ。

船橋家祖先之碑」の石碑は、愛知県小牧市の河内屋新田のかわちや児童遊園内にあり。

故 河春舎亀客碑
故 明輝園山月翁碑


短歌:
「家祖の碑の脇に建ちをり今に伝ふとをまりふた文字の短き世界」/船橋拡光



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