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『 I think ~ 』
日本語には一つの物や事に対して様々な単語や言い廻し方があり、細かなニュアンスを表現する事ができます。文章にする時でも、好意的に言うか悪意を持って言うかによって全く受け取り方が反対になったりします。これを見て、海外の人からは日本人は何を考えているか分からない、とか表現が曖昧で分かりにくいと批判される事があります。
『 I think ~ 』
シリア人の親友にナジという人がいました。彼とは主にウクライナで一緒にプロジェクトの仕事をしてきましたが、様々な局面で仕事上の議論をする事がありました。私もそうですが、日本人は日本語で話す時、たえず『 ~ と思います 』という言い方をします。別にはっきりした判断に基づいているのではなく、ただ何となく口癖の様になっています。
東西冷戦が始まろうとしていた頃、シリアはソ連寄りの国になっていました。その関連から当時ソ連の一部であったウクライナへは多くの優秀なシリア人の若者が留学に行ったそうです。彼は国費留学生として、ウクライナのハリコフの大学で勉強してきました。そして卒業後もキエフに残って仕事をしていました。
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元々インテリジェンスの高い人でしたが、彼の場合は意見が対立しそうと思った時、後からでも『 I think 』を付けてきたのが強く印象に残っています。これはどちらかというと自己主張の強い一般のアラビア人からはあまり聞き慣れない話し方です。
『AはBである』と断定してしまっては直接すぎて相手への当たりが強すぎるという気持が働きます。それを何かで包みたいと考えます。人にお金を渡す時にも封筒等の包に入れます。店先で買い物をする時はもちろん裸のお金ですが、子供にお年玉を渡す時等いくらかでも社交の意味合いがあるお金を渡す時はむき出しのお金ではいけないのは常識です。
『AはBである』というのはむき出しのお金を突き付ける様なもので、はしたない印象になります。これを包めば、『AはBだと思います』とか『AはBではないでしょうか』となります。その心理で英語をしゃべる時に『A is B』とは出来ないで、『I think A is B』といった表現になります。
実際には特に深く考えている分けではありません。思索的かと言われるとそうではありません。
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日本へ来たばかりのアメリカ人に日本人は二言目には『I think』というが、そんなに思索的なのかと質問され面食らった事があります。ナジさんの場合は、ヤクザのように喧嘩強い人でしたが、『I think』を付ける事よって他人への印象が随分柔らかくなったのではないかと思います。『ほらまた言った』