労働時間
自分が大企業のサラリーマンとして勤務していた時の労働時間に対する見方と、独立して雇用する側になった後の労働時間に対する見方の変化について考えてみました。
英国で始まった産業革命以降、労働時間は工場労働者を基準に設定されてきました。従って、労働時間に対して賃金が支払われてきました。その為、タイムレコーダーにより管理される事が一般的でした。
ひとりで会社を設立して間もない頃、私自身は元々商社勤務から社会人として仕事を始めた事から賃金については実績中心で考えてきました。初めて仲間になって頂いた方は工場の管理職の経験から、労働時間に対する賃金を基準に考えるべきとの意見で、この件について次の仲間を迎える前に議論した事があります。
仲間が更に増えた時私が感じた事は、賃金について拘束時間に気を取られすぎると、接待をする時や会社として行うイベントへの参加、本人の為の人材育成に要する時間等の扱いが割り切れなくなる事でした。
近年はコロナ禍の影響から、テレワークやリモート会議など、働き方や勤務時間に対しての考え方や管理手法が大きく変わってきました。これを契機に今後は労働時間と賃金に対する考え方は大きく進化していくと思われます。そもそも頭脳労働者に対しては『勤務時間は管理すべきものか?』という疑問もあります。
労働時間
一般的な組織では労働時間には2通りのとらえ方があります。決まった時間だけ働く人と一定以上の実績を上げている内は何時に来て何時に帰ってもいい人たちです。前者はより下の階層、後者はより上の階層に属する多くの人々に当てはまります。実際にはどちらも働く人々にとっては失礼な取り決めです。
決まった労働時間を課すのは、人々を資源として、つまり腕や脳を決まった量の時間で雇うという前提に立っています。仕事とはつまらないもので、人材は交換可能であり、社員は支払われる給料の分だけ職場に拘束される事を前提としています。
特に下の階層に属する人々は、組織から信頼されていないので、自分で目標を設定して達成するまで働くというような自分の仕事として取り組む仕組みになっていません。これは共産主義に近い基準です。以前、工事の仕事で行った共産主義のユーゴスラビアから独立して資本主義に移行途中のクロアチアで若者たちと話していると、共産主義の生産性の低さはその辺りからも来ていると力説していました。共産主義の不合理な点が骨身にしみていたようです。共産主義は性悪説に根差した考えです。
資本主義も成熟してきた今の私達の社会を見ていると、この辺りは更に改善の余地が在りそうに思います。現にGAFAと呼ばれている米国で急激に発展している会社では事務所の中にリラックスして雑談するスペースや脳をリフレッシュする為の業務とは直接関係のない設備が設けてあるそうです。これは日々のルーティン業務でも『メンバーはプライドを持ってよい仕事をしたいはずだ』という性善説から発しています。
一方、大半の会社組織では経営陣には決まった就業時間はありません。自分で自分を律し、仕事が終わるまで働きます。つまり経営する立場にある人々には、『個人の人生よりも仕事を優先すべし』という無言のプレッシャーが課せられています。
自分たちが常に『ON』になっていて、いつでも連絡される立場にあるので、『仕事外の生活は二の次にしなければならない』あるいは少なくてもそのような印象を与えなくてはならないと思っています。実は経営陣だけでなくメンバー全員がこのような考えを持つに至れば組織の仕事は常に改善されて、著しく発展するのではないかと思います。