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接待が好きな人

私は酒の席ではできるだけ商売の話はしないようにしています。買ってほしい、安くしてほしい等の気持ちはわざわざ口に出さなくても相手は百も承知しているからです。わざわざ商売の話を出すのはそれだけ野暮だと思います。

その代わり人生観、夢、遊び、旅行や趣味に関する事や全人格的な話をテーマにします。なぜかと言えばいかなる仕事であれ、自分という人間をよりよく知ってもらう事が長い目で見て商売につながると思うからです。

反対に取引先から招待された場合は相手にもよりますが、相手が負担に思っていると感じる時やそれを商売のネゴに使おうとしていると感じた時は接待を受けないようにしています。

製品を買ってほしいからご馳走し、機嫌を取ってくれているとすれば、接待でやり玉に挙がっている官僚の様にタダ酒が呑みたいというのならともかく、打算で偽善の笑顔を浮かべるような接待は精神衛生上も良くないと思います。取引先に借りを作る事のマイナスをもっと心得るべきです。

接待費用は何らかの形で価格に上乗せされていると考えるべきです。接待を受けてその会社から製品を買えば接待を受けた側が実は接待費をそっくり払っている事になります。諸般の事情でやむなく接待を受ける時は奢り返して借りを作らないようにしておく事を心掛けるべきです。接待を受ければそのツケは自分に還ってくるものです。

公共財と私的財

先日、ソ連邦最後の指導者でノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ氏が亡くなりました。米国と並ぶ超大国であったソ連邦が無くなり、共産主義の国が崩壊したことで多くの経済的混乱が起こりました。そもそも私的財が許されていないはずの共産主義の中で作り上げられてきた国の制度が覆る訳ですからドサクサに紛れてあぶく銭を稼いだ人達が大勢いました。

昨今、世間で有名になった多くのオリガルヒと呼ばれている元共産国の富豪はこの時に生まれたものです。家や自動車などは私的財と理解できますし、工場の生産設備やアパートなどの建物、また大型農業用機械等は公共財と考えられてきました。

それらの公共財を工場や農場の責任者が役職として海外に売り払い、代金を海外の自分の口座に振り込ませるというのがひとつの金儲けのパターンであったみたいです。そういう経済に関するルールが決まっていなかった時ですから、役人がルールを取引の途中で自分に都合のいい様に変えるというのもネタになったみたいです。

自分が一番楽しんでいる

公共財

公共財とは誰もが分け隔てなくその恩恵を受けるもので、元々、自然界の水や空気などがそれに当たります。一方、自分と誰かの行動の組み合わせによって作られる付加価値に対しては利己主義と利他主義の境があいまいです。これは長年にわたって作られてきたルールにより決まります。

ある組織のネットワークが多様になればなるほど他人に利益をもたらす利他行為が安定してきます。つまり公共財の構築に協力的な人が増えてネットワーク自体の富が増え易いという現象です。その意味で、いわゆる同じ種類の人間集団でサラリーマンタイプの人間が多い会社は案外脆いものと言えます。

ただしこの様な多様化したネットワークの内では一部の人に利得がある一方で大多数の人達の利得は限られる傾向もあります。富の分配が不公平になるという事です。この事により成功する組織は『受け取る』行為よりも『与える』行為が重要であるという事です。

社会における収入の差は正義・不正義の問題ではなく、人が協力関係を結ぶ際のルールに依る現象なのかもしれません。

私的財

共産主義が崩壊して資本主義になろうとしていた頃、東欧の国で施工現場の仕事をしていました。政府の援助案件で大学のTVスタジオを作っていたのですが、ユーザーである大学関係者は私達といい人間関係を作りたいという気持ちが強かったのだと思います。何度も食事を招待されるのですが、場所は多くの場合様々な個人の家でした。

強い絆

たまに町のレストランへ行く事がありましたが、その時はいつも設計事務所の社長が同行して支払いをしてくれているみたいでした。たぶん共産主義の為、大学から接待費としての経費が出ないので、そのようなアレンジになったのだと思います。この場合は公共財の分を私的財から支出していた事になります。

様々な若者と話す機会がありましたが、大学では学長とトイレ清掃員の給料がほぼ同じで、学長は自分の私的財からこれらの接待費を賄う事が不可能。この事だけをみても共産主義の社会が発展しない事は明らかだという事でした。

以前日本の知事で公共財の接待費を個人の飲食費にしていたことが発覚し、問題になった事がありましたが、これとは正反対の現象でした。

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