敬語
日本の場合、歳を重ねると多くの人から敬語を使われる対象になります。同時に歳を取れば取るほど周囲の人間は目下になるわけですから、敬語を使う機会が減ってくるとも考えられます。目下に対しては普段着の言葉遣いをしても失礼にはなりませんから、どうしても敬語の出番が少なくなってしまいます。
先日スーパーに買い物に行った時、大きな叫び声が聞こえてきたのでそちらを見ますと、私よりも年長の爺さんが、アルバイト店員と見える若者に口汚く怒鳴っているのでした。内容はあまり聞き取れなかったのですが、その爺さんの表情が不動明王のようにすごく怖くて本気で怒っているのだと感じました。これは傍から見てもあまり気持ちのいいものではありません。
シニアになれば出来るだけ敬語で話す様に心掛けるべきです。特に若い人、目下に当たる人には出来るだけ敬語で話しかけるのがいいでしょう。なぜならシニアの敬語は若い人のそれと違って『あえて敬語で話す』ため、より丁寧な印象を与えるからです。
例えば自分より年長の人が招待に対してお礼を述べる時に、『本日はお招き頂き有難うございました』と丁寧な言葉遣いで深々と頭を下げられたら、ひどく恐縮すると同時に『ああ、なんて礼儀正しい人なんだろう』と感じます。
シニアの丁重な言葉使いや物腰はかなり印象に残るものです。誰に対しても分け隔てなく丁寧な対話が出来る人こそ『本物の大人』。いたずらに歳ばかり取って『大人の本質』に気付かないようではシニアとして恥ずかしい。
私は若くて血気盛んであった頃、勝ち馬に乗りたいだけの農民兵のような担当者が多い中で勝ちを制するには論争に負けてはいけないと考え、随分乱暴な言葉を吐いた事がありました。たとえその論争に勝ったとしても時間が経つとあと味が悪く、大いに反省する次第でした。切れたふりをするのはたまには効果があるでしょうが、本気で切れたのでは論争にも勝てません。そこでヤクザの論法について勉強したことがあります。
清水の次郎長の話
幕末の頃のヤクザの親分、清水の次郎長がある時『あなたはどうしてそんなに喧嘩が強いのか? 秘訣があったら教えてほしい』と尋ねられて、「感情が高ぶっている奴は、こちらがちょっと乱暴な言葉を口にしただけで、『なんだと、もういっぺん言ってみろ』と大声でがなりたて、顔を真っ赤にして刀に手を掛けようとする。そういう相手は冷静さを失っていると分かる。気が浮ついていて下半身に力が入ってないので、簡単にやっつける事ができる。反対に強い奴は乱暴な言葉を口にしてもデンと構えている。冷静で肝が据わっている証拠だ。こういう人間は喧嘩を売っても買わないし、喧嘩も強い」
つまり強そうな相手とは喧嘩をしない事と、たとえ論争になった場合でも冷静さを保つ事が大事みたいです。
吉田松陰の場合
一方、明治維新で活躍した長州藩の人材育成に大いに貢献した松下村塾の塾長、吉田松陰は塾生たちの前で偉そうにしたことは一切なく、塾生一人ひとりに対しても『くん』付けではなく『高杉さん』『伊藤さん』といったように『さん』付けで呼んでいたとされています。
また講義をしている時も、『私は個人的にこう思うのですが、どう解釈されるかは皆さんの自由です』とその人の価値観をあくまでも尊重して、自分の意見を押し付ける事は一切しなかったそうです。
自分は後輩や部下といった目下の人達に対して自分の価値観を無理やり押し付けてないだろうか。上から目線になっていないだろうか? 過去の成功談を自慢げにお説教のように口にしていないだろうか?
シニアになったら特に、誰に対しても分け隔てなく敬語で接しているとこのような恥ずかしい行いを減らしていけるのではないかと思います。
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