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『Oppenheimer』が公開できない国
クリストファー・ノーラン監督による『Oppenheimer』*1 が米国で公開されたのは2023年7月21日。2カ月以上経った現在でも日本公開の目途は立っていない。少なくとも年内の公開は絶望的である。
いち映画ファンとして本作品を観たいと思うのは自然なことだろう。だから、これを書く私のモチベーションは怒りと嘆きによるものであるが、それらの感情を一旦排して、『Oppenheimer』が日本で公開されないことの意味について考えてみたい。
今なお難しいテーマ
『Oppenheimer』が公開を見送られている理由は、改めて指摘するまでもないが、日本において原子爆弾が極めてコントロバーシャルな物議を醸す存在であること、に他ならない。その原爆の「父」と呼ばれるJ. Robert Oppenheimerの伝記映画ともなれば、核兵器の開発から使用、その後までが描かれることは必至であり、唯一の被爆国が両腕を広げて歓迎しないのは当然の態度ではある。
核兵器について積極的な議論を起こすことは戦後から続くタブーであったし、これからもそうだろう。政治学、国際政治学、また防衛において避けることのできない要素であるにも関わらず、専門家でさえ、声を抑えて議論を行っている。あるいは議論しているように見えないようにしている。これは良し悪しの問題ではなく、余計な摩擦を生まないための配慮でもある。
よって、配給会社や劇場などの企業にとって、上映する利益よりも遥かに巨大で無用なクレーム対応やPR危機がもたらされること確実なこの映画を、存在しないかのように無視することは、ビジネス上では合理的であるし、ある意味では同情することも可能だ。
しかし、国を分断するような政治的課題を持たない日本にとって、社会的な対話を生むポテンシャルを秘めた芸術作品の価値は極めて高いものであり、道徳的に言っても、広島・長崎の歴史的背景を有する日本にこそ、映画を通じて核兵器に対する議論と認識を深める機会が提供されるべきである。
教育の軽視?
企業的な事情と心配を脇に置いておくとして、ひとつの疑問が浮かぶ。
日本でこれまでに行われてきた原子爆弾に対する教育は、ただの映画一本で揺らぐほど脆弱なものなのだろうか?
原爆がもたらした被害と非人道性については義務教育によって念入りに、教育が行われている。(最近は排除が進んでいるそうだが)学校の教室や図書室には「はだしのゲン」が並び、広島に修学旅行となれば必ず原爆資料館へ行き、8月になれば各種メディアで連日核兵器の問題が取り扱われる。これらはごく一部に過ぎない。核兵器を非難する教育は日本の隅々まで行き届いている。であるならば、このような映画によってもたらされる影響は限定的なものに過ぎないはずである。
確固たる教育と理解があれば、『Oppenheimer』を伝記映画として客観的に観ることも、社会的対話の契機と見ることも、単なるエンターテインメントとして楽しむことさえもできよう。映画を公開しない、公開できないといった判断を下すということは、知的な議論を求める層のみならず、日本国民全体の知的好奇心や判断力を侮っているということを意味するのではないだろうか。
もし、この映画によって過剰なまでに議論が紛糾し、予想を超えた大きな影響をもたらすのであれば、それだけ日本社会がこの問題に対して敏感かつ無知である証左となり、前述の教育を見直す機会になるだろう(私は決してそうなることを期待していない)。
『Oppenheimer』とオッペンハイマー
以上を踏まえると、実は映画の内容は、この際あまり問題ではないことが明らかになる。『Oppenheimer』が仮にアメリカ人の極めて楽観的で横柄で配慮に欠けた核兵器観を表現していたとしても、それを現実の問題として議論することは可能であるし、新たな問題を認識できるという意味で有意義であることは否定できまい。全ての芸術作品がそうであるように、映画による影響や受け取り方は観客に委ねられており、それを制限すること自体が大きな誤りである。
まして、クリストファー・ノーランといえば国内外で尊敬される映画監督・ヒットメーカーであり、彼をして単なる核兵器礼賛の映画を作るとは到底考えられない。そもそも、核兵器を肯定的に描きたいのであれば、当時の科学者を題材にしようと思わないだろう。
オッペンハイマーは他の原子爆弾の開発を牽引した科学者たちと同様に、核兵器に対する態度を変化させたことは広く知られている。その中でもマンハッタン計画の責任者であること、共産主義との接近が危険視されたことは彼の人生のドラマ性を高めたと言え、おそらく『Oppenheimer』でも争点にされているはずだ。*2
科学者たちは核兵器の開発に際して、その科学的・技術的挑戦に魅了されるとともに、その兵器が母国アメリカや同盟国を救うことを信じていた。オッペンハイマー自身が後年強調しているように、彼らは科学者であると同時に愛国者であった。一方でノーベル賞のアルフレッド・ノーベルと同様に、その発明がもたらす破壊についても熟知していたため*3、彼らの認識が変わったことを美談として片付けることは倫理的なハードルがあると言えることは付記しなければならない。
トリニティ実験によって核実験が成功した際に『マハーバーラタ』から、「Now I am become Death, the shatterer of worlds.」の一説を引いたことも象徴的な逸話である。
戦後、オッペンハイマーは核兵器の拡散と仕様を防ぐためのコントロール策を求め、50年代には彼の政治的信念と反核兵器のスタンスからマッカーシズムの対象となり、安全保障上のリスクと見なされるまでとなった。また、晩年には核兵器や科学の倫理について多くの講演を行い、マンハッタン計画の道義的責任を感じ続けていたとされている。
このような背景から想像するに、『Oppenheimer』はオッペンハイマーという人間像を通じて、核兵器の是非だけではなく、日本では矮小化されている科学の倫理問題や技術の人類に対する影響、科学者と責任の関係性など多くの争点を改めて考える良いきっかけになったはずだ。
とにかく日本公開を!
話を蒸し返すと、クリストファー・ノーラン監督の過去作は日本でも大ヒットした『バットマンビギンズ』以降、配給会社の変更があった『プレステージ』を除いた全ての作品が北米とほぼ同月に公開されている。そのため、日本における公開日が遅れることは珍しくないという擁護は通用しないだろう。また、映画『バービー』と組み合わさったネット上のミームは、あまりに無神経なものであったが、公開しない直接的な理由ではなく、配給側が公開しない言い訳として利用されたふしもある。
感情を隠して書き続けることが困難になってきたので、これでお終いにしたい。
結局のところ、配給会社や劇場が余計な摩擦が起きるのをきらった、これに尽きるのであるが、日米両国で注目、もとい議論が起きている時期に公開できなかったことで、興行収入を最大化する機会も失ったと言えるではないだろうか。
前言撤回、ビジネスの観点からも同情することはできない。この日本における損失を最小化するためには可能な限り早く公開するしかないのだ。
『Oppenheimer』の日本公開に関わる全てのアクターに、可及的速やかに公開するようお願いしたい。キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jrと一人だけでも観るに値する錚々たる顔ぶれが連なる映画、あのクリストファー・ノーランの映画を公開しないことは、映画ファンに対する裏切り行為であり、上記の議論を苛烈な言葉に換えれば日本国民に対する侮蔑である。
*1 『Oppenheimer』は日本公開が決まっていないため、タイトルも未定であり、『オッペンハイマー』とするのは避けた。筆者の嫌う命名規則からすると、邦題は『オッペンハイマー:原爆の父と呼ばれた男』といった具合になるだろう。
ついでに触れると映画の下敷きになった原著は『American Prometheus』である。このようなタイトルに対して、どのような反応をすれば良いか、自分でも分からない。
プロメテウスによってもたらされた火がそうだったように、人類は原子爆弾によって、それ以前からは隔絶した時代に放り込まれたのは確かである。しかし、プロメテウスは神であったが、オッペンハイマーをはじめとした科学者たちは人間であり、ひとつの国家の民であった。この点は抽象的な比喩では済まされない違いがある。
*2 オッペンハイマー個人の考え方については、ロバート・オッペンハイマー著『科学と人間社会:科学と一般の理解』(新評論社、1956年)および同著『原子力は誰のものか』(中央公論社、1957年)などの発言録が一時記録の訳として客観的かつ詳しい。これらに僅かでも目を通せば、オッペンハイマーの思慮深さ、素朴な愛国心、科学に対する肯定的な態度、人間の善意への期待が見て取れる。
*3 上述『原子力は誰のものか』「オッペンハイマーの弁明」(p. 245)内には、本人の回想として「私たちはこれが戦争でどう使われるか、また歴史の流れにどんな大きな変化をもたらすであろうかをいくぶん理解していました。」とある。
* 写真は筆者が以前ラスベガスのNational Atomic Testing Museumに訪れた際に撮影したもので、「原爆グッズ」の展示である。当時から8年近くが経過したため、雰囲気が違っているかもしれないと思ったが、サイトを見る限り変わりないようである。
アメリカにおいて、原爆に対する理解が日本と根本的に異なることは否定できない。原爆によって枢軸国の野望は打ち砕かれ、アメリカの正義が実現されたのも事実である。原爆を開発した科学者たち、あるいは原爆そのものを英雄視するのも無理はない。
この博物館では入場するとムービーが始まり、悪のドイツや日本に翻弄される世界が描写された後、「ボカン!」と原爆によってそれが解決されたことが示される。あまりにもな内容なので、多少の不謹慎さを覚悟していたにも関わらず、呆気にとられた。それもよくあるアメリカの怪しい団体ではなく、スミソニアン協会加盟のれっきとした国立博物館で、なのである。
アメリカ政府が国民を実験台にして原爆の影響を調べていたことは広く知られており、この博物館でも展示されている。にも関わらず、原爆はおおよそ肯定的に扱われており、果ては「原爆グッズ」なるものが今でも販売されているのである。およそ日本人の感覚とは隔絶したものがあり、このような点から見ても、原爆に着目したアメリカの映画を観ることには一定の価値があると言えよう。アメリカの見方を肯定できなくても、理解できなくてもよいが、知る必要はある。