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サッカーとの出会い

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 新型コロナウイルス感染による緊急事態宣言が発令されて1週間以上が経過しました。皆さんお元気にされていますでしょうか?

 不要不急の行動自粛が叫ばれる中、当然ながらスポーツや音楽などのエンターテインメント産業の活動は世界中で停止になっています。学校ですら休校状態が続く中ですから当然です。

 とはいえ、こんな時だからこそ、曲がりなりにもスポーツを題材にして原稿料を貰っている身としてスポーツの話題について発信していきたいと思います。

 まずは、筆者自身のスポーツとの出会いから書かせていただきたいと思います。

野球少年のサッカーとの出会い

名古屋グランパスエイト

 1993年、Jリーグが開幕しました。当時小学校4年生だった僕は家に帰って来ると、玄関にランドセルを置いて野球をしにいく子供でした。友達数人でする三角ベースぐらいでしたが、それが楽しかった。

 僕はJリーグが開幕するまではサッカーに関心がなく、Jリーグ開幕前年の日本代表戦を少し観たぐらいしか記憶にありません。

 逆に大阪出身の僕は毎日のようにサンテレビで放送されている阪神タイガースの試合を観て、『♪~それゆけ和田豊(選手、監督として阪神一筋)』の応援歌を歌う。「テレビでスポーツを観る」という習慣は、野球くらいしか記憶に残っていません。

 ただ、天邪鬼な僕は阪神の試合を観ていながら、オリックス・ブルーウェイブ(当時)のファンでした。イチロー選手が大ブレイクする前からオリックスファンでした。何せ僕の女性との初デートはオリックスの試合でしたからねー(笑)(花火ナイターでした)。そして、何故か僕が観に行った試合の先発投手が図ったわけでもなく、3試合連続で小林宏というその後は日本シリーズで敢闘賞を受賞する選手でした。

 Jリーグが空前のブームとなり、僕もテレビでJリーグを観る事が多くなりました。そして、「誰が観ても解かりやすい」という理由なのでしょうか?当時・ヴェルディ川崎の日本代表FW三浦知良(現・横浜FC)選手のボールを足で跨ぐフェイント=シザースと"カズダンス"に憧れて、小学校から帰宅した際は野球だけでなくサッカーもするようになりました。

 しかし、Jリーグの観戦チケットはプレミアチケットとなり、全く購入できないほどの人気商品でした。

初のJリーグ観戦は日本人初のハットトリック

永島昭浩

 そんなある日、僕の父親が職場の同僚が都合がつかなくなって譲り受けたJリーグの観戦チケットを持って帰って来ました。

 1993年6月5日、サントリーシリーズ第7節(第1ステージのことで、当時はスポンサー名が冠。第2ステージはニコスシリーズ)。会場はオリックスのホームスタジアム=グリーンスタジアム神戸の隣、神戸総合運動公園にあるのがユニバー記念競技場。対戦カードはガンバ大阪VS名古屋グランパスエイト(当時)。

 当時はサッカー普及の意味合いもあり、ホームゲームの開催地が複数だった時代。ガンバのホーム開催でも、当時はヴィッセル神戸が存在していない時期なので、ユニバーでも何度か開催されていました。

 カズさんに憧れてサッカーに興味を持った僕は両親にJリーグの選手名鑑を買ってもらい、この試合を観に行くために"予習"をしていました。そして、両チームの選手を観て真っ先に覚えたのは、名古屋に在籍していたイングランド代表FWギャリ―・リネカー選手。1986年のメキシコW杯は"ディエゴ・マラドーナの大会"としてアルゼンチンが優勝した大会でしたが、その大会の得点王は彼でした。

 まだW杯に日本代表が1度も出場していないどころか、W杯出場なんて夢のまた夢状態だった事もあり、W杯の意味もわかっていない小学4年生の僕は、「W杯得点王がいるんだ」という興奮と、リネカーが現役生活で1度も警告を受けていないフェアプレー精神の"ジェントルマン"である事ぐらいは覚えた上で、この試合を観に行きました。出身も住まいも大阪でも、それとG大阪とは特に関係はなく、この試合に出場する選手で最も凄い選手はリネカーだと。

 その試合は実にメモリアルな試合になりました。

 G大阪の元日本代表FW永島昭浩(フジテレビの永島優美アナの父)選手がJリーグ初の日本人によるハットトリック(外国籍選手の初のハットトリックは開幕戦で鹿島アントラーズのMFジーコ選手)を達成し、ガンバが3-1で勝利したのです。

 もちろん、永島さんのハットトリックも偉業でしたが、それ以外にも開幕から負傷で戦列を離れていた"浪速の黒豹"日本代表MF磯貝洋光選手がJリーグデビューを果たした試合でもありました。また、現在は"ミスター・ガンバ"となった高卒ルーキーFW松波正信(現G大阪強化部長)が初アシストを記録した試合でもありました。

 そして、前述のリネカーは・・・。なんと前半終了間際にG大阪のDFフラビオ選手の悪質なファウルを受けて蹲り・・・負傷退場。骨折でほとんどJリーグでプレーできなくなる怪我を負ったのを、ちょうど僕が位置したゴール前で目撃しました。

 当時はゴール裏が熱狂的サポーター集団の陣取る場所という認識もなく、そのファウルの判定やリネカーへのブーイングも意味もわからず。それよりも、そのファウルで得たFKを名古屋のMFジョルジ―ニョ選手が直接決めた事に感動。

 しかし、松波さんの浮き球パスから、永島さんのハットトリックとなる3点目が決まった84分。僕はもうスタジアムにはいませんでした。よくあることかもしれませんが、「電車が混むから」という父親の指示により、試合終了10分前には席を立って帰路に向かっていたのです。そして、地下鉄の駅に近づいた時、スタジアムの大きな歓声による揺れを感じました。

 スマホも、インターネットもなく、大阪からユニバーまでの距離も遠い事から、夜のニュースも観れず。帰宅してその夜はすぐに就寝。翌朝の新聞と朝のニュース番組で永島さんの歴史的偉業を確認したのでした。あの偉業を目撃し・・・・てはいないことも、翌朝まで何もわからなかったことも悔しかった。

 でも、その試合を観戦に行ってからは完全にガンバサポーター一色になりました。ヴェルディとのホーム万博での初対戦した試合では、カズさんがオフサイドの位置から決めたゴールや、ヴェルディの司令塔にして日本代表の全てを司るMFラモス瑠偉選手とG大阪・中国代表DF買秀全(現・中国女子代表監督)選手が乱闘騒ぎを起こした際に、ラモスさんには警告のみで買秀全さんには1発退場が命じられるなどの事態があり、ヴェルディは憎む対象になりました。

 ただ、やはりJリーグ開幕から2年はチケットも買えない状態で、当時のG大阪のホーム=万博記念競技場へは1度も行けませんでした。

練習場で体感したファンサービス

宝物となった初代イヤーブック

初代イヤーブック

 そんなチケットが買えない中、母親が弟と一緒にG大阪の練習場へ連れて行ってくれたことがありました。当時のG大阪は現在の万博公園内ではなく、京都府の京田辺市にある松下電器施設内でトレーニングをしていました。

 そこでG大阪の初めてのオフィシャルイヤーブックに各選手からサインをいただきました。特に覚えているのは磯貝さんが練習開始の1時間以上前に来て、ずっと1人でFKの練習をしていたのですが、わざわざサポーターが陣取る側で練習をしてくれていたのを覚えています。

磯貝洋光

 また、野球好きだった僕は野球選手はそれほどファンサービスがなく、"遠い存在"に感じていたので、サッカー選手は"近く"感じたのも覚えています。

ミューレル

 サインペン二刀流でサインしまくっていたブラジル人FWミューレル。
Jリーグ開幕前から活躍したテクニシャンで人気者でした。

和田昌裕

 今年2月にG大阪へ復帰した和田昌裕さん。地元・ヴィッセル神戸を始め、京都サンガやタイのクラブでも監督や強化スタッフを歴任して来たレジェンドですが、先頃、G大阪の取締役にも就任し、現在は「強化アカデミー担当参与」として活躍されています。現役時代は全ポジションをこなすオールラウンダーにして、ガンバ初ゴールを記録した選手。永島さんと共に神戸でもレジェンドとなった選手でした。

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 そして、和田さんの次男・和田篤紀さんは昨年何度も取材させていただきましたJFL・鈴鹿ポイントゲッターズの10番を着ている選手(写真は昨年、当時のチーム名は鈴鹿アンリミテッド、篤紀選手は背番号25で前列左端)。

かしゅうぜん

 "アジアの壁"と言われたDF買秀全(カ・シュウゼン)選手。昨年の女子W杯では中国代表を率いてベスト16進出。

岡中勇人

 当時の日本代表GK本並健治さんは腎臓破裂で生死の境を彷徨った直後だったので、こちらも日本代表に登り詰めたGK岡中勇人さんに貰いました。
浦和レッズへ移籍した都築龍太も含めて、ガンバの正GKは3代目まで代表に選出される実力者でした。それぐらい相手に攻め込まれる事が多かったのですが・・・。

 相手チームの紹介も掲載されていた初代イヤーブックは貴重です!
今でもしっかりと保存しています。(だから写真撮れます、笑)

 また、当時は選手登録がプロ野球の1軍と2軍のように、トップチームとサテライトチームに分けられており、トップチームは色付き。サテライトは白黒と“差”がつけられていました。

トップチーム

サテライト

 ”ミスターガンバ”松波さんは高卒ルーキーで、現在アメブロのサッカー部門で川澄奈穂美選手(スカイ・ブルーFC)と1位を争う森岡茂さんも2年目。当然の白黒でした。

松波正信

 そんなサッカー、Jリーグ、ガンバ大阪との出合いでした。

 翌1994年、僕はアメリカで開催されたW杯のテレビ中継を早朝に起きて何試合も観ました。どんどんとサッカーに惹きこまれて行くのですが・・・。

 小学生時代の僕は、野球もサッカーもどこかのチームに所属したわけではありません。サッカーなんてグラウンドもない都会生まれの僕にはクラブチームもなかったと思います。というか、今のようにインターネットもないので、どこに地域のクラブチームがあるのかも分からない。

 そんなサッカーの本格的なプレーや、偶然にもファンになったG大阪との思い出の続きは・・・長くなりましたので、とりあえず今日はここまで。 

 続編希望の方がいらっしゃれば再び書きたいと思います。 

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