この時代に宗教を信仰する意味をプリキュアになりたいという子どもから自分なりに考えてみた
🌼written by wattle🌼
4歳になる娘が今一番はまっているのがプリキュアだ。
キラキラ・プリキュア・アラモードのキュア・ジェラートが一番のお気に入りで、七夕の短冊には「キュアジェラートになりたい」と書いていた(ママの代筆)。
超お金持ちの令嬢でありながら、元気はつらつにバンドでギターボーカルをしていて、爆音をかき鳴らし高らかな歌声で自分の「大好き」を表現する『たてがみ あおい』ちゃんの変身した姿がキュア・ジェラート。
変身の際の決めゼリフは「自由と情熱を レッツ・ラ・まぜまぜ!」
戦闘シーンでは、持ち前の怪力で仲間のピンチを救ってくれる勇ましい女の子だ。
4歳の娘はまだ、自分にプリキュアになる可能性があると本気で信じているようだ。時々、レッツ・ラ・まぜまぜしている。かわいいかわいい。。。
振り返れば俺も子供の頃、スーパーサイヤ人になれると信じて気を溜めて修行していた時代があったのを覚えている。
きっとほとんどの人にそういう時期があったと思う。
しかし、子供もやがて気づく。そんなことは現実には起こり得ないフィクションなのだと。
物理法則を知らず、科学的な立証などせずとも、小学生にもなれば必殺技など出しようがないことを確信する。
それはきっと大人たちが共有している、現代の合理的・科学的な世界観に染まってゆくからじゃないかと思う。
さて、俺は、信仰心などない無神論的なところからクリスチャンに転向した人間なのだが、ある時、「神様がいるって信じているの?」という友人からの問いに対して、その場で上手く答えられなかった。
「信じている。」
シンプルにそう答えてしまうと、こいつ大丈夫?と思われてしまうのではないかと恐かった。
いや、正直に言えば、文字通り「神様がいる」とは今も思えていない。
「神様の実在を信じられず答えられないなんて、クリスチャン失格だ!信仰心が足りていない!」なんてお叱りが飛んでくるのかもしれない。
でも、そこは我流クリスチャン。俺は俺の感じたことと考えたことを土台に生きてゆくほかないと思っている。
今回は、プリキュアを切り口に、俺が宗教・信仰をどう考えているかを説明してみたいと思う。
現代は神による説明を必要としなくなった時代**
20世紀のドイツの神学者ボンヘッファー(1945年没)という人は、現代を「作業仮説としての神」を必要としなくなった「成人した世界」であると表現した。
「成人」になる前の世界では、不治の病や天災などの人智の及ばない事象を、「神の手によるもの」としか説明できなかった。
しかし、科学の発達によって、これまでは神に頼ってしか説明できなかったものを、神無しで説明できるパラダイムへ移行したということだ。
ボンヘッファーは、このパラダイムシフトをもって、現代を「成人した世界」と表現した。
「成人」という表現は非常にしっくりくる巧みな表現だと思う。
プリキュアやスーパーサイヤ人になれないことを悟った子供を、我々は「大人になったね」と表現するが、それと同じ語感だ。
今回の俺の記事は、神を必要としなくなった成人した世界で宗教はどうあるのか、という問題を提示したボンヘッファーへの、俺なりの現段階での回答でもある。
「プリキュアになりたい」と「神さまを信じている」の本質
さて、仮に今、子供の頃にプリキュアが大好きだったという人気俳優が、「今でもプリキュアになりたいって本当に思うんです」とインタビューで話しているのをネットニュースで見たとしたら、あなたはどう思うだろうか。
俳優はこう続ける。
「私が大好きだったのはキュア・ジェラートというキャラクターで、彼女はどんなに困難な壁が立ちはだかっても、必ず信念を持って自分の道を進んでいくんです。友達が苦しんでいるときにはまっすぐに自分の思いを伝えて友達を立ち直らせてあげられる優しさもある。私もキュア・ジェラートのように自由と情熱をもって生きていきたいなって思うんです。」
「神を信じる」というのも、結局こういうことだと俺は思う。
この俳優にとって「プリキュアになりたい」とは、「プリキュアという物語のメッセージに共感し、これからの自分の人生の指針とすること」だ。
プリキュアが本当に伝えたいメッセージは何なんだろう?
プリキュアの制作スタッフたちはどんな思いを込めてこの物語やキャラクターを描いたのだろう?
こういった、小さな子どもには難しくてできないような、自分自身への「大人な」問いかけの中から、自分もどう生きるべきかが見つかるということは多いずだ。
俺にとって、宗教・信仰というのはほとんどこれと同じだ。
キリスト教が伝えたいメッセージは何なんだろう?
聖書の生き様を描く聖書の執筆者たちは、どんな思いを込めて一つ一つのエピソードを描いたのだろう?
そういう自問自答を繰り返して人間の歩むべき道を見出してゆくものが宗教なんだと思う。
宗教への依存
ただ、宗教に強く依存してしまい、そこから抜け出せなくなってしまっている人がいるというのも事実だと思う。
『キリスト教の歴史』(小田垣雅也、講談社学術文庫)の中では、聖書を読むのには、読み手側の一人一人の主体性が重要である、と説かれている。
『聖書が告げていることは、哲学のように不動の真理ではなく、人間に対する問いかけである…(略)』
『聖書は人間に対する問いかけであるとか、神と人間との契約のことだと言ったが…(中略)…この場合問われているのは、問いかけと応答や契約の一方の当事者である人間の主体性、責任である。人間の主体性や責任を喚起するものとして神が理解されているということだ。逆に言えば、それがなければ、人間の主体性や責任の根拠が出て来ないようなもの、それが神だということである。これが聖書が神の言葉であると言われる意味であろう。
この人間の主体性とか、責任の感覚がユダヤ的思惟の特徴の一つである。ヘブル語の真理、エメス(temeth)はギリシア語の真理、アレティア(elvocea)のように認識の問題ではなく、生き方の問題にかかわる。すなわち、神の意志とその意志に応 じての人間の応答にかかわることであって、不動の真理をいかに認識するかということにかかわるのではない。』
『聖書は幾層もの伝承や編集の過程を経て成立した古典文書の一つである。しかしそれが聖書としてキリスト教の唯一の正典であるのは、われわれがそれに主体的にかかわるか否かにかかっているのであって、客観的に聖書が神の言葉であるからではない。聖書は聖書であるのではなくて、聖書になることが大事であると言えるかもしれない。』
以上の引用文はキリスト教を念頭に置いた文章だけれど、全ての宗教に同じことが言えると俺は思う。
迷うことなく信じれば救われるような何かがあると期待して宗教にのめり込んでゆくのは危険だ。
それは、自分を見失うことにつながってゆく。
大事なのは、どう生きるべきかを自分の頭で考え続けること。
宗教はときに人を依存させる怖さもあるけれど、自分の足で立って向き合い続ければ、より深く自分の生き方を考えるチャンスを与えてくれる。
この記事を読んで下さった方へ
もしあなたの周りに何かの宗教を信仰している人がいたら、「神様がいるって信じているの?」とは聞く必要はありません。
それは、「本当にプリキュアに変身できると思ってるの?」と聞くのと同じようなもので、ほとんど意味のない問いだから。
誠実に宗教と向き合おうとしている人には、どこか落ち着いた静謐な空気感や幸福感があると思う。それは、神さまと向き合うことを通じて自分自身と向き合い続けた、その人自身の大きさと、強さと、しなやかさ。
そんな魅力の秘訣を探ってみることの方が、よっぽど楽しい会話になると思いませんか?
もしあなたの周りに何かの宗教に異常と思えるほどにのめり込んでいる人がいたら、「神さまなんているって信じるようになっちゃったのね。。」と距離を置かないであげてほしい。
その人はきっと、自分の外にあるものに依存しなくてはいられないほど、何かに深く傷つけられてしまっただけだと思う。
そんなときにしてあげられるのは、まず何より等身大のその人を相手にいつも通りに向き合ってあげることで、距離を取ってしまうことは、より一層その人を孤独な暗闇に沈めてゆくことにしかつながらないと思います。
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