2024/02/01、刺さらなかった映画

ジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1992)を再鑑賞。22日から出町座でかかるというけど、もうその時には京都にいないので!残念だが仕方ないから寮で上映会をした。

いやぁやっぱり好きだ。
本当に気の合うやつは会って30秒で分かる。そういうことを描いていると思う。つまりは恋。別に性別なんて関係ないのさ。
そしてこの映画自体も、始まってすぐ「気の合う」映画だって分かる。素晴らしいね。

あと、今朝、友人の勧めで、押井守『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』(1984)を観た。
うーむ、これはかなり批評的。しかし今の俺には刺さらないし、刺さりづらい理由もなんとなく分かる。


最近観た、(刺さっても良さそうなのに)刺さらなかった映画たち。ムム。

・マーティン・スコセッシ『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)

アメリカ先住民のある部族が白人に文明を受け渡そうとした矢先に、先祖代々住んできた土地から石油が噴出、一転、部族全体は栄華を極める。その部族と、結婚などを通して部族に取り込み遺産を狙う白人の話。白人の悪玉をロバート・デニーロが、その下で実際に部族の娘と結婚し葛藤しながら暗躍する男をレオナルド・ディカプリオが演じた。

音響、色彩美などは素晴らしいし、お金のかかり具合を感じる贅沢さ。特に冒頭の石油が吹き出し歓喜するカットはかなり好きだ。また、俳優陣も流石というところで、レオナルド・ディカプリオも良かったし、なんといってもロバート・デニーロの「裏で暗躍する街の名士」はハマりすぎている(たしかアカデミー賞にノミネートされてた)。スコセッシ監督とのコンビで言えば、『タクシー・ドライバー』(1976)も『キングオブコメディー』(1984)も好き。

でも、ぼくはやっぱり、大きな舞台(今回でいえば、歴史と(ポスト)コロニアルな観点がそれだろう)を構えながら、それを使ってありふれた実存の機微(叔父であるロバート・デニーロと妻のあいだを揺れ動き葛藤する主人公)を描くような映画を、好きになれない。人間的な機微はもっと細部に宿ると思うし、この描き方は短絡だと思う。そうした短絡は、「舞台」にも「人間」にもどちらにも失礼だろうとすら思えてしまう。歴史性みたいなものはそんなに設えなくても私たちを縛っているし、人間はそういう大きな観点から自己理解することももちろんあるが、もっと豊かな余剰もあるはずだと信じる。その点、(ベトナム戦争の歴史を背負っていると言えるにせよ)『タクシー・ドライバー』は好きだな。
同じ理由で、『インターステラー』(2014)とか嫌い。結構嫌い。クリストファー・ノーランだったら『メメント』(2001)とか大好き。あれは素晴らしい。

・岩井俊二『キリエのうた』(2023)

これは、刺さらなかったことがとってもショックだった。岩井俊二は『リリイシュシュのすべて』(2001)や『リップヴァンウィンクルの花嫁』(2016)、『スワロウテイル』(1996)、『打ち上げ花火〜』(1995)が本当に本当に好きなので、とっても残念。
アイナジエンドの歌は最高にいいし、繰り返し聴くんだが、しかし…。
自分は、宮台真司の映画評から岩井俊二に入っているが、宮台の図式を借りれば、岩井俊二が一貫して描いているのは、社会のつまらなさ、つまらない〈社会〉とその外側の〈世界〉の対立。そして〈世界〉の混沌にも関わらず、そこから観ればありそうもなく思える〈社会〉が、このようにあることの美しさ、みたいなことだ。
そして、リリイシュシュにおけるリリイ(salyu)や、リップヴァンウィンクルにおける真白(Cocco)の歌がそうだったように、岩井俊二の映画において圧倒的な歌は、私たちを〈社会〉から〈世界〉に連れ出す調べに他ならない。

『リリイ』において思春期の中学生ーー大人になることは〈社会〉の自明性への順応を意味するだろうーーはリリイの歌を聴いて〈世界〉を望見し、そしてだからこそ学校〈社会〉は悲劇を迎える。『リップヴァン』では、社会をつまらないと思いつつ、つまらない結婚生活を「なりすまし」たように送り、甲斐甲斐しく餃子を包む皆川七海(黒木華)が、真白に出逢い、〈世界〉に連れ出される…。

私にはね、幸せの限界があるの。もうこれ以上無理ーっていう限界。多分そこらの誰よりもその限界が来るのが早いの。アリンコより早いの、それ、その限界がね。
この世界はさ、ほんとは幸せだらけなんだよ。みんなが良くしてくれるんだぁ。宅配便の親父はさ、私がここって言ったとこまで荷物運んでくれるしさ。雨の日に知らない人が傘くれたこともあったよ。でもさ、そんな簡単に幸せが手に入ったら、私壊れるから、だから、せめてお金払って、買うのが楽。お金ってさ、たぶんそのためにあんだよ、きっと。(真白)

岩井俊二『リップヴィンウィンクルの花嫁』より

どちらも本当に綺麗で、好きな映画だ。
『キリエ』では、主人公(アイナジエンド)は、家のない女であり、同じく放浪に近い生活を送るイッコ(広瀬すず)とともに路上ライブなどで食い繋いでいる。彼女は、「本当になんでこんなに〈社会〉はつまらないんだろうな」と思わせる圧巻の歌声を響かせる。

それは〈世界〉からの調べのようであり、やはりここでも岩井俊二は構図を崩していないように見える。
しかし、ここはうまく言えないが、微妙なバランス感覚で、えもいわれない〈世界〉の微妙さを映し出していた『リリイ』『リップヴァン』と違って、そうした〈世界〉の感受性が、何かベタベタな〈社会〉の感受性に包摂されてしまっているように思えた。路上ライブの手拍子、涙、最後のフェスと嘘みたいな警察介入…。描きたいことはわかるが、しかしそこには、何か透明だったものが、白いペンキで塗られてしまったような、そんな感じがある。
主題歌「憐れみの讃歌」の「世界はどこにもないよ、だけどいまここを歩くんだ」は宮台真司へのアンサーかと訝しんだ。そのつもりであの映画を撮っていたなら、それは流石に凄すぎるけど。
しかしまあ、これはかなり繊細な話であって、観るタイミング、シチュエーションでまた変わりそう。


好きな映画の好きな理由、刺さらない映画の刺さらない理由を書くこと、まずはこういうことが1番大事だ。ゆっくりでいいから(性急に言葉を求めるのは良くない)丁寧にしていきたい。難しい理論を振り回して良し悪しを言うより、自分にとってその映画はどんな意味を持つのかにしっかり向き合うことのほうが今は大事だと確信している。

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