2024/06/08

昨日の続き。
仕事で動く際の自律的なエンジンを自分の中に持ち合わせていない。意思決定を1人でしにくい。だれかと話して初めて、意思決定もできてくる。それが例えば、トラックに荷物を積み込む時どの順に積むか、とか、どのタイミングで買い出しをするか、とか、今日どこまでどの順序で仕事を済ませればいいか、とかそういうレベルの話でそうなのだから、割と常に横に人が居ないと困る。何日か前から友人と2人で作業をしていて、その時は2人前以上の仕事ができている感じがあるが、翻ると1人の時は0.5人分くらいの仕事しかしていない気がする。

別に、友人が下した意思決定に従っている、というわけでもない。誰かに全て決めてもらいたいわけでもない。しかし、意思決定を形成するのが1人ではできない。「こうしようと思うけどどうかな」「いまこれとこれどっちが優先かな」とか、話しかけられる人がいると、それだけで断然捗るのである。

多くの(?)人は、そういう話かける他人を自分の中に同居させていているのだろう。しかし、どうも自分には居ない。実際に人にいてもらうか、少なくとも特定の人と一緒にいる想像をするかしないと、どうも回っていかないのである。1人ではぼーっとしてしまう。

使っていなかった筋肉の輪郭をよく確かめている日々。

「私ね、わかったことがあるの」
瑞月さんは、理香さんの呼びかけを全く気にしない。
「最近思ったの。人生が線路のようなものだとしたら、自分と全く同じ高さで、同じ角度でその線路を見つめてくれる人はもういないんだって」
瑞月さんはまっすぐに隆良を見つめている。「生きていくことって、きっと、自分の線路を一緒に見てくれる人数が変わっていくことだと思うの」
隆良は立ち上がりかけた自分の体をどうしていいかわからないらしく、中途半端な姿勢のままそこにいる。
「今までは一緒に暮らす家族がいて、同じ学校に進む友達がいて、学校には先生がいて。常に、自分以外にら自分の人生を一緒に考えてくれる人がいた。(…)」
(…)私たちはもう、たったひとり、自分だけで自分の人生を見つめなきゃ行けない。一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。」(…)
「私たちはもうそういうところまで来た。」

朝井リョウ『何者』(新潮文庫:2015)pp.251-252

朝井リョウはこうかくし、それは一つの真実だと思う。だけれど、仲間がいなきゃ動けないなら、自分のその認識(目線)と責任とで、仲間がいる場所に行けばいい。仲間を作ればいい。

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