2024/03/17、青柳さんと『ニュー・シネマ・パラダイス』 放送部時代の話
夜、利尻の自宅。
ホームシアター初上映。これだけは、と、人も呼ばずに1人で観た。
その数時間前に、島で葉野菜の水耕栽培をされている方にお会いして、いろいろお話させていただいたのだけれど、途中、映画の話になりーーその方の家にもプロジェクターとスクリーンがあったーー好きな映画は何と聞かれ、少し迷って、『ニュー・シネマ・パラダイス』と答えた。
昨年、劇場で唯一泣いた映画は、この映画に音楽をつけたモリコーネのドキュメンタリー映画『モリコーネ』。やはり、「愛のテーマ」で感極まってしまった。昨日も、ラストシーンでやはり泣いた。
もちろん、ただでさえ、いい映画なのは間違いない。人生の10本に挙げる人も多いだろう。けれども、この映画が大切なのは、ぼくの人生にとって大切なのは、ここに描かれるトトとアルフレードの関係が、ぼくと、高校時代お世話になった恩師との関係に、重なるからだ。喋ることの楽しさ、書くことの楽しさ、生きることの楽しさを教えてくれた方が、高校生のぼくには居た。
青柳秀侑先生。
フリーアナウンサー、映画評論家。ラジオ深夜便で映画のコーナーを持たれており、そして神奈川総合高校の放送部のコーチを務めておられた。
毎週水曜日と土曜日に放送室に来て、放送のこと、映画のこと、世間のこと、いろいろ教えていただいた。ぼくの今の声は、先生にいただいたものだ。
ぼくは、生意気な性格で、師匠と呼べる人をなかなか持たない。それは勿体無いと思いながらそうなのだけれど、それでも青柳さんはそれに近かったと思う。そしてまた恐縮ながら、ぼくとしては、アルフレードとトトのような、年齢を超えた友人であったとも思っている。
本当に何も知らないただの子どものぼく(精神的にも肉体的にもぼくは本当にただの子どもだった)を、可愛がってくださり、部活終わりは、東神奈川駅のミスタードーナツかドトールで、遅くまで色々な話をした。
文化放送に勤めていた時代、日米首脳会談の報道に随行したこと、初泣(最初に公共の電波に声を流すことをこのように言う)のこと、たくさん喋ってくれた。
放送室でもたくさんお世話になった。なんでお前はいつまでもそんなに下手なんだ、と言われつづけ、大会前の練習では泣かされ続けた(というより、ぼくが勝手に泣いていた)。「泣いてるうちはまだまだだ。」と言われたし、最近は男の子がヒョロくて困るとボヤかれた。
こんなぼくにずっと付き合ってくれて、下手くそなぼくを、全国大会の舞台にまで送ってくださった。
そして、映画なんて何も知らない高校生に合わせていたのかも知れないけれど、青柳さんはよく、「ニューシネマパラダイス」の話をした。
恰幅の良さ、温和な語り口、ぼくが出会ったころはすでに弱視が進んでいたこと含め、少年のぼくにとってーー青年にすらなっていなかったぼくにとってーーあの人はぼくにとってアルフレードだったし、ぼくはトトだった。青柳さんはちょうどアルフレードのようなサングラスを掛けていらした。
青柳さんとは、夜、よく電話をして、世間話をしたり、読みの訓練をしたりしたのだけれど、時折酔っ払うと、青柳さんは、自分は流れる川に置かれた石だ、と言った。
「俺は石なのよ。流れてく川の石。俺が放送部のコーチをして十数年、俺は放送室に居続けるけど、高校生たちはどんどん入れ替わる。どんどん新しい人が来ては居なくなる。君も居なくなる。わかるか、少年。」
「昔の子の方が大人だった、みたいに皆言うし俺も君たちに言うけど、そんなには変わらないのよ。皆それなりに子どもで、皆それなりに大人になっていく。なぁ、ゾエ坊よ。君はいつ大人になる?」
君はまだまだ子どもだ、と言われ、そんなことはないですよ!と言っていた、そんな時分のことである。
今このように書きながら、懐かしい話をしているけれど、しかし、故郷というのは、一般的に、振り返ってみればその人にとっての呪われた土地だ。そのことも教わった。アルフレードもトトに言う。ノスタルジーに惑わされるな、と。
京都に来て、初めての梅雨、泣きたくなった時に、一度青柳さんに電話をかけたことがある。ぼくは泣きたかったのだけれど、青柳さんは「ちゃんと京都で暮らしなさい」と言って、早々に電話を切ってしまった。涙を堪えて鴨川から寮に引き返した記憶がある。
コロナが流行り始めてしばらくした頃か、青柳さんが体調を崩されていると風の噂に聞き、メールを何度か打ったが、返信は最後までなかった。
高校の時、葬式には、来るな、と事あるごとに言っていた。葬式に来なければ、俺はおまえの中で生き続けるとも言っていた。
ぼくにとって横須賀は好きな土地であっても帰るべき場所ではない(実家には時折帰省するし、精神的に参った時はお世話になるが)のは、この映画と、アルフレードと、青柳さんの言葉が、確実に影響している。故郷もまた、帰らないからこそ、自分を支えてくれている。
あの放送室も。
青柳さんが居たから、ぼくは故郷に帰らない、帰れないし、帰りたくもない。だけど、青柳さんはその代わりにぼくに踏み出す勇気を教えてくれたのだと、今感じる。
ラジオという声だけの媒体で、限られた番組の尺の中で、山ほどの映画の語り部を務めた人の、独特の文体。
青柳さんの声が蘇ってくる。
本当にありがとうございました。
もう、好きな映画を聞かれてこの映画の名前を出すのはやめにしよう。
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