2024/06/20

精神的に落ち込み気味な日が続いているけれど、基本的にそれは、「期待されている自分」と現状の自分のギャップから来ていると思う。言い換えれば、「あのように振る舞うことを期待されているけど振る舞えない」ということが、ぼくの身体をこわばらせ、心を締め付ける。呼吸が浅くなる。背中が張る。

気をつけなくてはいけないのは、ここでぼくに期待してぼくを苦しめるのは、自分自身である場合が多いということ。別に、他の人はぼくが思っているよりぼくに期待していない。「調子のいい時の自分なら〇〇できるのに」とか思ってるのは、まぎれもなくぼくである。

そう思えたのは、今日、共同生活の場を離れて、街の有志の会議に初参加させてもらったのだが、とても気が楽だったからだ。別にここでは良くも悪くもぼくに期待していない。どう振る舞っても問題ない。だから、とても快適だった。
改めて思うが、ぼくが大学生活、たくさん旅をしてきたのは、あるいはいろいろな家を訪ねたのは、ともすると継続的な人間関係が生み出す目線の束縛から逃れるためだったのだと思う。

心の旅。居ながらにしての旅を身につけたい。

ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言い方をすると、ぼくらには《他者の他者》としてはじめて自分を経験できるというところがある。ぼくらはじぶんを誰かの他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。ぼくがそばにいないとあの人はだめになる。何もできないけれどただそばにいるだけであの人は安心して居られる、ぼぬが病気かなんかで欠席するととたんにクラスは活気がなくなる……理由はなんでもいいのだ。要するにじぶんの存在が他者にとってわずかでも意味があること、そのことを感じられる限り、ひとは自分を見失わないでいられる。(…)そういう他者の他者としての自分が欠損しているとき、ぼくらは他者にとっての意味ある自分を経験できない。
だから、そういうことが続くと、ぼくらは自分自身になるために「じぶんで他者の世界の中に妄想的に意味ある場所をつくり上げる」という絶望的ないとなみのなかにじぶんを挿入していかざるを得なくなる。

鷲田清一『ちぐはぐな身体ーファッションって何?』(ちくま文庫:2005)pp.132-133

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