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2024/02/21

三条大橋から清水道、高台寺、八坂神社と贅沢な散歩。ありがとう。とっても素敵な、宝物のような京都の夜でした。

欲しいものはたくさんあるの
きらめく星くずの指輪
寄せる波で組み立てた椅子
世界中の花 集めつくる オーデコロン

けれども今気がついたこと
とっても大切なこと
欲しいものはただひとつだけ
君の心の 黒い扉 ひらく鍵

離れている時でも ぼくのこと
忘れないでいてほしいの ねぇ おねがい
悲しい気分の時も ぼくのこと
すぐに呼び出してほしいの ねぇ おねがい

楽しいことはほかにもある
満月の下のパーティ
テニスコートを駆けまわる
選びぬいたもの集めつくる 中華料理

けれども今気がついたこと
とっても大切なこと
一番楽しいことは
君の口から あなたの夢 きくこと

離れている時でも ぼくのこと
忘れないでいてほしいの ねぇ おねがい
悲しい気分の時も ぼくのこと
すぐに呼び出しておくれよ ねぇ おねがい

離れている時でも わたしのこと
忘れないでいてほしいの ねぇ おねがい
悲しい気分の時も わたしのこと
すぐに呼び出してほしいの ねぇ おねがい

悲しい気分の時も ぼくのこと
すぐに呼び出してほしいの ねぇ おねがい

ひとつだけ

矢野顕子は途中これを「白い扉」と歌う。

“indulge”とは、まさしくこの「耽溺する」「自足する」という意味に他ならない。それはたとえば慢性中毒患者などが、酒や麻薬にふけって、そこからぬけだせなくなっている、そういうイメージをもっている。いわば〈自己の惰性に身をゆだねること〉だ。ドン・ファンはカスタネダの、合理的に説明しようとする強迫を、ひとつの“indulgence”としてとらえる。つまり、合理主義的な世界の自己完結性、持続性を、ひとつの罠として、人間の意識と生き方をその鋳型の中におしこめる一つの閉された「世界」として把握する。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫:2003)p.96


ふつうの人間は、人為的なさまざまな価値を重大なものと信じこんで執着することによって、生命の集中力を保っている。このような「人のすること」は〈トナール〉の個体性を防禦している盾である。しかし〈ナワール〉の力を獲得する戦士には、もはやそのような自己欺瞞はできない(「古い盾はもう危くて使えん」)。それは戦士が、この「世界」をカッコに入れる〈明晰さ〉と超越性を身につけてしまったからである。
そこで戦士の使うのが新しい盾、すなわち〈世界をつくる項目を選びぬくこと〉である。それをドン・ファンはべつのところで〈コントロールされた愚かさ〉と読んでいる(…)。このように、〈コントロールされた愚かさ〉とは、明識によって媒介された愚かさ、明晰な愚行、自由な愛着、対自化された執着である。

同前、pp.136-138

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