2024/02/24

新宿→川崎→鎌倉→実家

今日からひと月、読書会で迫られたとか以外の理由では、人文書を書いません!早朝に宣言する。

兄をみると、労働と生活について、あるいは世界に住むことについて、いろいろ考えずには居れない。
さて、兄の家を出て、今日は尊敬する先輩と尊敬する後輩に会う。特に後輩の方はわざわざ会ってくれるなんて思わなかったから嬉しい。

そのあと、「島に行く前にお前に会いたい」系女子こと高校の同期に会う。3年間クラス替えのない、席替えのない高校でずっと前の席に座っていたやつである。彼氏を連れてくるらしい。彼氏を第三者にあわせるのは初めてらしい。光栄極まれり

いろいろ持て余さずにお話しよう!!

新宿から川崎の移動は、組んでもらった餞別プレイリストで走ろう(というか、いま中央線だが、好きな人中央線沿いに住みすぎである)。

小町通の不二家

近代の終わりに至ってもたらされたもの、それは労働する動物の勝利である。本章でこれまで論じてきた労働の価値転換、労働の肥大化、キリスト教の呪縛といった種々の要因が相まって、労働は人間の最高にして中心的な活動となり、「労働する動物 Animal laborans」という人間像は、人間の定義そのものとなった。労働をめぐる規範も、その性格を一八〇度転換させた。労働から逃避すべしという古代的な規範は、労働へと埋没すべしという近代的な規範に取って代わられたのである。「アテネだけでなく、古代から近代に至るまでずっと、労働する者は市民ではなく、市民とはまず何よりも、労働しない者、あるいは労働以上のものを所有している者にほかならなかった」。労働者であることと市民であること、より広く言えば、労働者であることと人間であることは、古代において両立しなかった。しかし近代においてはむしろ、労働者であることこそが人間であることを意味するようになる。人間の定義がまさにひっくり返ったのである。
 アーレントは言うーーマルクスは、人間という動物を、労働する動物として定義したが、ここからほとんど必然的に帰結するのは、生産手段の生産にほとんど関わらず、食べるために労働する代わりに、他人の労働によって生活している者は、寄生者であり、正確に言えば、人間ではないということである。

林大地『世界への信頼と希望、そして愛』
(みすず書房:2023)pp.129-130

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