ごみとストレス、その源
以前に「ごみとごみ箱は互いに持っている」という記事を書いた。「心のなかにたまるごみ」をどうしているかということを少し書いたものでしたが、今回も懲りずにまたごみの話。(トップの画像は「ごみを捨てないで下さい。」と書いてあった掲示物の写真です。)
環境への取り組みでごみの減量というのは資源問題や温暖化問題、自然破壊など様々な面で取り組む大切さが言われてきていて、ごみの分別についてはかなり定着してきた気がしています。
大きな考え方として、
ごみを出さない。
繰り返し使う。
リサイクルも大きなことではありますが、資源として再利用するにもコストがかかるし、再利用できるならどんどん使ったらよいという感覚で大量消費そのものが変わるわけではない。消費を増やす(ごみをだす)を新しいビジネスとしてリサイクルするというモデルはごみがなくなると成立しなくなるモデルなので、根本解決にはならないのかもしれません。(大事なことではありますが。)
リサイクルよりも、そもそも「ごみを出さない・ごみになるようなものを作らない」「何度も使えるものを作る・繰り返し使えるものを手にする」ということを対策というか消費者の価値観として浸透させていくことが大事なんだと思います。
そもそもごみも、ごみとして生まれるわけではなく、元の資源を加工し消費できるものにしたものが「使われなくなる」「使えなくなる」「よりよいものが生み出され置き換えられる」ことなどによって不要なものとされごみと化す。とても貴重な資源を使ったにも関わらず。だからこそリサイクル(再資源化)ということにもなるのだろうけど、回収コスト、再資源化コスト、再流通コストを考えると新しいごみを生み出すことも考えられる。(このあたりはいろいろ考え方があるので素人の私としてそこを今回議論したいわけではないのでご容赦ください。)
このような話の「ごみ」を「ストレス」と置き換えて考えてみる。
(ここでのストレスは単なる刺激という意味合いより、「悪い刺激(不快・不安・苦しいなど)」というイメージです。)
リサイクルというのは、ストレスを生み出す環境要因を改善せずに、ストレスを抱える人のサポートをすることでそのことに向き合える(心のごみ箱の容量を大きくするや、ごみ箱のなかのごみを取り除く)ことかもしれない。そのことはとても大切なことですが、まわりからの投げ込まれるごみの総量が多くなると対応しきれなくなるかもしれない。
「ごみを出さない」はストレスが発生しない環境をどう作るかということだろうか。「繰り返し使う」はどう考えたらよいのだろうか。
ストレスの源についても考えてみる。ごみはもともと資源だよねということから、ストレスももともとは「貴重な何か」だったものから生まれたのかもしれない。みなさんはどんなときにストレスを感じるのだろうか。
多いのは「人間関係」「職場・活動などの環境」「差別的・ハラスメント的価値観・文化」「疲れ」あたりでしょうか。
このあたりをみていくと、「人間関係」は良好なときにはストレスを感じないが、バランスを崩すと簡単にマイナスなものとなっていく。その数が多いほどその調整は難しい。SNSなどで多くの人とつながれる時代、同調圧力の強い社会だからこそ、便利さの裏返しとしての負担も大きくなる。友達自体も登録数が増えてもただ消費してしまう時代でもあるなかで、何度もやりとりしたい自分にとってのほどよい関係規模ややりとり方法などを知ることが大切なのかもしれない。
「職場・活動などの環境」や「差別的・ハラスメント的価値観・文化」は従来の価値観やシステムとして、「かつての当たり前」「これで成果を出した」ということから、今の時代に価値観をうまく更新できていないからこそおこることかもしれません。世代間の考え方が衝突することもあると思います。繰り返し使える大切な価値観と、時代にそぐわないだれかを傷つける価値観を分別していくとよいのかなと。
「疲れ」は、人としての耐久性が完全に消費されているが、一度壊れると人は簡単にリサイクルなんてできません。だからこそ休むことやメンテナンスすること、なにより疲れない(=無理を強いられない)生活環境づくりこそ必要なのかもしれません。
結果としてストレスというごみを出さなくてよくなればよいなと。
いつもより長くなった。
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