HIROBA編集版 「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回) 第3回「熱をぶつけあうということ」 対談2:飯田久彦さん
2019.08.05
第3回「熱をぶつけあうということ」
対談2:飯田久彦さん
「スター誕生!」で、スカウトマンたちの注目が他の有力候補者に向くなか、のちにピンク・レディーとなるお二人を選び、阿久さんや都倉俊一さんとあのビックスターを支えた音楽ディレクターの飯田久彦さん。
飯田さんはかつてご自身もシンガーとして「ルイジアナ・ママ」といったヒット曲を飛ばし、紅白歌合戦にも出演した異色の経歴を持ちます。
高校の同級生には坂本九さんがいて、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」の“チャコ”という愛称は飯田さんのものだったとも言われています。様々な時代の、きら星のような才能たちを間近で見てきた飯田さんにとって、ものづくりで向き合う阿久悠とはどういう存在だったのか。それを聞かせて頂きたくて、お話を伺いました。
番組でも触れられた「サウスポー」の書き直しのエピソードは、なかなかにしびれるものがありました。
「いや、土下座してね…」と笑い話のようにさらっとおっしゃっていましたが、すでにレコーディングされていたものを覆すというのは当時でも相当の覚悟が必要だったんじゃないでしょうか。
若輩の僕などにも、本当に丁寧に受け答えしてくださり、その誠実さと、温和さが滲み出ていらっしゃった飯田さん。しかしその柔らかさの奥には、良い作品をつくるためには妥協をしない強さがおありだったのだと思います。
天才と呼ばれる怪物たちを、ただ組み合わせるだけでは、実は面白いものはなかなかできないのかもしれません。
怪物たちを本気にさせるひと。成功したプロジェクトには、必ずそういった表には出ない裏方のキーパーソンがいるものです。このひとだから、阿久さんも書き直しに応じたんだろうなと、飯田さんの笑顔をみながら思いました。
自分が全力で投げたボールを全力で投げ返してくれる作曲家や歌い手、スタッフを、阿久さんは求めていたのだと思います。
インタビューのなかでは、当時、彗星のごとく現れた新人バンド、サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバット」について、阿久さんが「おもしろい!」とおっしゃったというエピソードも伺いました。
言うまでもなく、この楽曲のタイトルは阿久作品の沢田研二「勝手にしやがれ」とピンク・レディー「渚のシンドバット」をかけ合わせたであろう、いわばパロディ的なネーミングです。
周囲は阿久さんが怒り出すのではないかとヒヤヒヤする方も多かったようですが、飯田さんがご本人に伝えると身をのりだして「おもしろい!ユーモアがあっていい!」と喜ばれたそうです。
このエピソード、とてもうがった見方をすると、阿久さんが自分自身に、後進のやんちゃを受け止められるだけの器量があると見せつけるための、いわばパフォーマンス的な言葉とも受け取れなくもありません。
しかし、今回、番組を通しての取材で感じたところを踏まえると、僕個人は、本当に心から「おもしろい!」と喜んでいらっしゃったのではないかと感じています。
今回、取材の端々で感じたのは、阿久悠の、創作という行為に対する、徹底した謙虚さでした。丹念に清書された直筆原稿にこだわるのも、作曲家への丁寧な説明ともとれます。
また太郎さんから伺ったところによると、晩年は巨匠だとして彼と向き合うことを避け、歌詞の修正についても具体的な要求をせずに投げ出すスタッフが多く、「ちゃんと言ってくれれば、俺はなんだって書くのに」と嘆いてらっしゃったと聞きます。
「巨匠だから言えない」などという、作品の本質とは全く関係のない保身の理由だけで、創作に向き合うことから逃げる態度は、阿久悠のそれとは真逆のもので、彼自身は、作品がよくなるのであれば自分のプライドよりも作品の進化を優先したのではないかなと、僕個人は推察しています。
また、阿久悠は、作詞や創作に関する多くの著作を残しています。
これほど自作について、自分で解説する言葉を残した作家は、おそらく他にいないでしょう。後述の糸井重里さんは「(阿久作品は)他の人に、あまり語られなかった」とも指摘されていました。
たとえば、同様に膨大な名作、ヒットソングを残している松本隆さんの作品群については、松本さんご本人が語る言葉よりも、多くの音楽ファン、音楽評論家たちによって語られる言葉のほうが圧倒的に多いように思います。
両者ともに、その才能、業績の輝かしさは疑いないのにもかかわらず、欧米のサウンドというものに対して日本語を乗せるという音楽的に特出した改革を成し遂げた松本隆さんに比べると、とりわけ音楽ファンとよばれるコミュニティの人々に、阿久悠はあまり語られてこなかったのかもしれません。
なぜ阿久悠があれほど、自分で自分のことを語ってしまったのか。
というところは、たしかに自身の能力を誇示する意味合いもあったでしょうし、彼の性格的にそれらの自分語りが単純に好きであったというところもあったでしょう。しかし、もう少し踏み込んで考えられるところでもあるように思います。
膨大な技術論の公表は、自身の才能への自信を感じさせながらも、このロジックを持ってすれば、必要な覚悟があれば多くのひとに作詞家への道が開けている。自分が成したことは、つまりは“再現可能”である。と主張しているとも、とれるように僕には感じられます。
それは自分を孤高の天才として高みに置く姿勢ではまったくなく、真っ白な紙の前では誰もが横一線、平等であるという、創作に対して極めて誠実で謙虚な姿勢であると言えます。
阿久悠は彼自身が残した言葉の量が膨大であり、また(とっても単純なことですが大きな影響があったこととして)彼の風貌が実に巨匠然としてしまっていたことで、それらの「語り」がおそらく彼が意図した方向と全く逆のイメージを、世間に与えてしまっていたのではないでしょうか。
話を、飯田さんへのインタビューに戻しましょう。
繰り返しになりますが、だからこそ、やはり飯田さんのように体当たりで作り手にぶつかり、良い作品をつくるために真剣に奮闘するディレクターに対して、やはり阿久悠は喜んで向き合ったのだと思います。
インタビューの終了間際、思わず大きな質問をしてしまいました。
「阿久さんのこと、好きでしたか?」
飯田さんは、少し間をあけて、何かをかみしめるように「いやぁ、いろんなことがあって、たくさん歌をつくって、たくさん怒られたりもして……でも、僕は阿久さんのこと大好きでしたね。」しばし言葉がつまった飯田さんの目には、こらえてらっしゃるものがありました。阿久悠は、作り手として、愛されていました。
※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。
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