ジェフ・ポーカロとイギリス人ドラマーたち
ジェフ・ポーカロの全セッションワークをプレイリスト化してみた!記事がじわじわと読まれていて大変嬉しいです。ぶん投げっぱなしな内容の記事なので少々恥ずかしいですが、記事の後にジェフの本を読んで感じたことを少し書いてみたいと思います。
「ジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチはプログレ好き」
「ジェフ・ポーカロ イッツ・アバウト・タイム 伝説のセッション・ワークをめぐる真実のストーリー」の中でジェフとデヴィッドの出会いでバンドが結成されていくわけですがその時に彼らが思い描いていたバンドのイメージは「もっとイギリス的なものを取り入れて発展させたものをやってみたい」というものでした。両親の影響で10代の頃から西海岸の音楽業界に出入りする早熟なジェフとディヴィッド、ジェフはスティーリー・ダンに参加したり二人で参加したボズ・スキャッグス・バンドなどで当時の西海岸のロックとソウル、ジャズなどをミックスした後のAORやクロス・オーバー/フュージョンの原型となるようなサウンドをすでに展開していた訳ですが、ジェフの発言を踏まえるともしかしてTOTOはAOR的なグループではなくよりプログレッシヴ・ロックを発展させていったような音楽になった可能性もあったかも知れません。いや「ハイドラ」や「アイソレーション」が正にそうだとご指摘はあるかと思いますが……。
ジェフは西海岸の人気パーカッション奏者であった、父親のジョー・ポーカロの影響でジャズやオーセンティックな米国ポップスは聴いていたと思いますが当然ジェフの世代であればビートルズ/ストーンズのブリティッシュ・インベンションとそれに続くウッドストックやニュー・ロックにも夢中だったと思います。リンゴ・スターやチャーリー・ワッツに加えてジェフの生涯のフェイバリットアーティストにジミ・ヘンドリックスを上げていますから当然エクスペリエンスのドラマー、ミッチ・ミッチェルは大好きだったでしょう。ジョン・ボーナムやイアン・ペイスも当然大好きだったと思います。
ジェフが影響を受けたドラマーとして二人のジム〜ジム・ゴードンとジム・ケルトナーという西海岸セッションドラマーの大先輩二人の名前を上げていますが、二人のジムはビートルズのメンバーのソロ活動、ジム・ゴードンはジョージ・ハリスン、ジム・ケルトナーはジョージ・ハリスンに加えてジョン・レノンやリンゴ・スターとのセッションが有名で、彼らが英国時代にセッションしていたドラマーが後にイエスに参加するアラン・ホワイトとなり自分の記事シリーズとの関連性がようやくここで明らかになりました。音楽や曲を第一に考えるドラマーという意味でもジェフ・ポーカロとアラン・ホワイトは共通していますよね。また英国出身の大御所シンガー、ジョー・コッカーも英国時代はアラン・ホワイト、米国進出後は二人のジムを経てジェフ・ポーカロがバックアップしていますね!
またこの本で語られたイギリス人シンガー・ソングライター、レオ・セイヤーとの邂逅と友情も興味深いです。レオ・セイヤーがジェフとデヴィッド・ペイチが結成しようとしていたバンド、すなわちTOTOのリード・ヴォーカリストになる可能性があったことはいつも参考にさせていただいている音楽の杜さんの記事に詳しいので引用させていただきます。
すでにレオ・セイヤーはソロアーティストとして英国では地位を築いておりレーベルとの契約もあったのでこの企画の実現は難しかったでしょうけど、レオの声質や佇まいは、ジェフやデヴィッドが思い描いていた「もっとイギリス的なもの」を体現するにピッタリであったかも知れませんし、限りなく予想を掻き立てる「If」であったのではないかと思います。また本の中で「ジェフはイギリスのドラマーのことをとても聞きたがっていた」というレオの発言も興味深くレオの英国時代の作品はキング・クリムソンの初代ドラマー、マイケル・ジャイルズが担当しておりこのことを含めジェフが憧れたイギリス人ドラマーたちの話を聞きたがっていたのかなあとも邪推出来ます。
また今回プレイリスト制作を進めていくことで改めて知ったのがRhythm Heritage 「Theme From S.W.A.T.」 (1975) ~ 邦題は「反逆のテーマ」〜が若き日のジェフ・ポーカロのドラミングだったことです。アイザック・ヘイズ「シャフトのテーマ」(1971)でのウィリー・ホールやバリー・ホワイト「愛のテーマ」(1973)のエド・グリーン、ヴァン・マッコイ「ザ・ハッスル」(1975)でのスティーブ・ガッドなどインストゥルメンタル曲でのナンバーワンヒットには名だたる諸先輩ドラマーの名演が残されていますがジェフも負けず劣らずのキレのいい16ビートを聴かせています。この「反逆のテーマ」はボズ・スキャッグス「ロウダウン」イントロでのハイハットプレイのヒントになったのかなとも更に邪推が膨らみます(適当)。
そして同時期のジェフのプレイに影響を与えているのでは?と個人的に感じているのがアヴェレイジ・ホワイト・バンドによる1975年2月のナンバーワンヒット「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」でのイギリス人ドラマー、ロビー・マッキントッシュのタイトなドラミングです。
AWBの1stアルバムを聴くと同じ1974年の「うそつきケイティ」の頃のスティーリー・ダンでのジェフのプレイに非常に近いものを感じます。イギリス人なのにこんなにファンキーでもありながらソリッドで無駄のないロビー・マッキントッシュのドラミングはジェフ同様、この時期としては大変に驚異的なグルーヴだったと言えると思います。ロビー・マッキントッシュは残念ながら直後にヘロインの過剰摂取で命を落としてしまうのですが彼の跡を継いだのもはやりイギリス出身の黒人名ドラマー、スティーブ・フェローンで彼もまた70年代末からチャカ・カーンのソロ作品などで新たなグルーヴの名演を作り出して行くことになり、ジェフやジョン・ロビンソンと同様、80年代の代表的なビートを作り出していった存在だったと思います。
非常にこじつけと言うか思い込みの内容になってしまいましたがジェフの死後、TOTOでの彼のポジションを引き継いだのもイギリス人ドラマー、サイモン・フィリップスだったというのも賛否両論あったかと思いますが自分的には合点がいく人選だったのかなと思っております。ちゃんと言質や裏付けが取れているわけではないのですがジェフ・ポーカロのドラミングがAORや80年代ロックの代表的な存在になれたのも様々な要因が影響しているのではないかと勝手な予想をしてみました。TOTOのプログレ本質論については書ききれませんでしたのでまたの機会に書いてみたいと思います。
最後まで読んでいただいたありがとうございました。個人的な昔話ばかりで恐縮ですが楽しんでいただけたら幸いです。記事を気に入っていただけたら「スキ」を押していただけるととても励みになります!