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「推し」に対する違和感
最近「推し」、「推し活」という言葉をよく聞く。
僕は、ゲーム、アニメ、アイドルなどのエンタメ業界で働いているので、尚更かもしれない。この言葉に違和感を持つのは自分だけだろうか。最近では、好きなアイドルや芸能人、タレントに対して使われているだけではなく、友人や知り合いに対しても使われ、かなり日常に浸透している。
この言葉には、「好き」や「ファン」、「応援している」とはどこか異なるニュアンスを含んでいる。あくまで「推し」の存在であるという留保によって、周囲から痛い視線を浴びずに没頭でき、自身の過剰さを避けることができるから、便利な言葉なのだ。推しの相手に対してガチ恋ではなく、距離をとった立場で自身を俯瞰した上で楽しんでいますよ、という何となく卑屈さのようなものをどうしても感じてしまう。
推しの対象を変える「推し変」なんて言葉も存在する。「推し活」自体、主体性が自分にあり、自分の中で完結するの自己満足的な側面が強いので、いつでも推す相手は変えることができるのだ。だから、「好き」とは言わないで「推し」と表現する。つまり、推しの対象は代替が可能な存在で、誰でもいいのである。その「推し」が好きな自分が好きということである。一人で、アダルト動画を見ながらマスターベーションしているのと同じで、例え「推し仲間」がいたとしても、それぞれが一人でマスターベーションをし合っているだけに過ぎない。自己満足で完結してしまう、閉ざされた嗜みが「推し活」の側面としてあるのではないだろうか。
画一的な学校教育の中では、本当に自分が好きで打ち込めることに出会うことは難しく、その中で何かに過剰にハマったり、極めたりする人が羨ましく、尊い存在として扱われている。「オタク」という言葉も、近年では「何かに夢中になっている人」、「何かを極めている人」という、ポジティブな言葉として使われ、かなりの市民権を得ている。僕も、「オタクだね。」と言われたら何となく嬉しい。何かオタクになり、「推し活」をすることで、自分の居場所を作り、それ自体が自身のアイデンティティににもなる。宗教も共同体も無い日本では、「オタク」になり、「推し」を作ることが、社会を生きる術なのだ。
多くの人が何かに夢中になって、人生をかけてもいいと思えるものに出会いたいと思っているはずだ。そこで、誰かを「推す」ことで自分も簡単にオタクになることができ、夢中でいられる。けれど、心の底から切望しているものではないので、「推し」という言葉に留めておく。こんな人は、多いのではないだろうか。
誰もが、自分の部屋に篭り、アニメやゲームで時間を潰し、「推し」という代替可能な存在でマスターベーションをする。まさに、一億総オタク化だ。
僕は、20代で周囲では「推し活」をしている人はごまんといる。実際に色々と話して思うのだが、素直で純朴、ファッションはコンサバ、保守的。文化資本や思想はあまり持っていない。こんな印象を受けるのだ。つまり、社会的に決して強くない立場であるからこそ、この殺伐とした世界を生きる術として、「推し活」なるものが大きな機能を果たしている。
元々、クローズな文化だったオタクコンテンツがここまで大衆に受け入れられ、ブームが起きていることは、逆に考えると、より人々の繋がりが希薄になり、社会や政治に意識を向ける機会を奪ってはいないだろうか。娯楽に浸って、自身の人生を誤魔化しながら生きていく役割として機能していないだろうか。ブラック企業や壊れた家庭、その他腐った所属集団に甘んじる原料になってはいないだろうか。
「推し」や「推し活」という文化は確かに人生を豊かにしてくれる側面も大いにあると思う。しかしながら、どこかこの様々な問題を抱える世の中の殺伐とした情勢をそのまま反映しているようでならないのである。