【小説】置手紙は捨てられない。~蜃気楼に歪む五日目~
第一話【小説】置手紙は捨てられない。
第二話【小説】置手紙は捨てられない。~どうってことない一日目~
第三話【小説】置手紙は捨てられない。~前のめりな旅は二日目~
第四話【小説】置手紙は捨てられない。~想像の裂け目に落ちた三日目~
第五話【小説】置手紙は捨てられない。~這い上がれ四日目~
(仰木の嫉妬~這い上がれ四日目~について)
四日目まで読んだところで、仰木の心境は大きく変化していっていた。二日目を読んだことでただの紙切れではないことを知り、初めは監視されているような恐怖と不気味さを覚えた。しかし、日を追うごとに、この先の読めない展開に興奮を覚えている自分がいることにも気が付いていた。理解のできない表現も多々あるし、結局何を言い表そうとしているのかがわからない意味深な文脈も少なくない。ただ、仰木は感じていた。ここに書かれていることは、あまりにも赤裸々なのだった。
セキララな日々…何も包み隠していないかと言われれば、そうではないかもしれない。一方で、読み終わったあとに手元に残る感覚は、意外にも爽快感だった。同一人物が書いていようがそうでなかろうが、今はそんなことはどうでもよくなっていた。表も裏もない、光も闇もない、人間の葛藤や不安に対する直球の想いがそこにはあった。素だ。素だった。心模様がしっかりと言葉にされる前に、キャンバスに炙り出てきたような感じだった。荒削りで不可解な表現で溢れているのは、表現力が未完成だからではない、人の感情とはそもそも不器用で終わりなきものだと気づかされた。
おれには、そんな場所あったかな。セキララに語れる場所なんてあったかな。少しずつ、少しずつ、読み返していくうちに、仰木とこの紙切れの距離は近づいていった。この紙切れに対する葛藤が緩やかに嫉妬に変わり始めた頃、五日目を通して解への糸口を掴むのだった。
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蜃気楼に歪む五日目
「このご時世にピンポンダッシュかよ…。」と呟き、深いため息とともにドアを閉めようと視線をドアノブに下ろした瞬間、そいつと目があった。居酒屋の前にいるようなでかい狸がそこに立っていた。おいおい、マジかよ。勘弁してくれよ。飲みすぎたのか。幻覚でも見ているのか。
街中が暑さで霞み、ユラユラと動いているように錯覚するほどの猛暑日の朝、十時。だった。居間に放置されている作りかけのラジコンがふと視界に入り、今日こそやるかと重い腰を上げた。ちょうどそのときに、呼び鈴が鳴ったのだった。何も有給休暇中の水曜日の午前中にピンポンダッシュに来なくてもいいでしょうが、と思い切り鼻をかんだら気管に何かが入ったようでむせた。くそ、狂ってやがる。
暑い上に、久しぶりに朝まで飲んでしまったせいで。頭がボーっとしていた。とどめにピンポンダッシュを食らったおかげで今日という一日の歯車は見事に狂った。二度寝してもいいほどの狂いようだったはずだった。しかし、根は真面目なのだ。延滞金は一円も払いたくない。せっかく重い腰をあげたのだ、ラジコンはまた今度にして借りていたDVDと図書館に本を返しに行くことにした。そして、家を出発して数分で違和感に気づく。おれの体臭はこんなにミントがきつかったか。歯磨き粉で整髪をしてしまったことに気が付いたのは、図書館の前のカーブミラーに差し掛かったときであった。今日は飛びっ切り、狂っている。
歩いて三十分の距離にある図書館に到着したときには、酔いが抜け始めていた。正確に言うと図書館に来たから酔いが醒めてきたのだ。ここに来ると不思議と勇気も湧いてくる。酔っていようが、シラフだろうが、自分にとってのパワースポットであることには違いなかった。
町立図書館だから十分な広さはないが、その分住処感が増していて気に入っていた。何かに耽る大人の秘密基地といったところだ。そして、我が基地には仲間がいる。昼間の常連と言えば、線香婆さんに浪人生のジョンレノン(そっくりなのだ)、昼食はスパゲッティだったのだろう、いつも何かしらの染みをつけたヨレヨレシャツを着ている爺さんら数名が、静かに椅子に掛けて書物や新聞を読んでいた。今日も異常なし。私の基地は平和そのものだった。受付にはヨーダが今日も腰かけていた。肝臓でも痛めているのか、顔色が年中悪く小柄であるせいか他の所員がヨーダと呼んでいるのを耳にした。出入りする人間と親しいわけでもなんでもないのに、見知っている顔があるだけでここに来る足取りは軽くなった。
図書館に来るような柄ではなかったのに、急に足を運ぶようになったのには理由がある。ここ数ヶ月、不思議な現象が身の回りで起き始めたのだ。気づいたら知らない場所にいたり、身に覚えのない高額な買い物をしていたり、数日分の記憶が抜け落ちたりすることが立て続けに起きたのだった。思い当たる節は全くなく、何か悪いものでも食ったかと初めは気にしていなかったが、仕事に若干の支障をきたすようになり、職場が一か月の休養をくれたのだった。想像以上に深刻に捉えたのか、上司の顔つきが変わったのは意外だった。聞くところによれば、前例のない特例措置のようだった。それもそのはず、医者の診断書も未提出だった。
自分自身のことなのに、「君の身体~で、~に問題があり、また~」などと自覚のないことを指摘されるのが嫌で、医者には行かなかった。世間一般ではこういう判断をビョウキと呼ぶのだろうがおれは認めなかった。その分、自分の手で答えを探し出してやろうと躍起になり始めたのがきっかけだった。インターネットを使いこなせるわけでもなく、仕方なく図書館を基地としたのだった。そんな事情があって通い始めたせいか、いつしか図書館に通う人は《何かに迷いもがく人》であるという勘違いも甚だしい認識をするようになったのだった。
この図書館に通い始めて二週間が経った。酒の力も借りつつ、毎晩答えを探すために分厚い専門書に目を凝らしていた。もともと勉強は苦手なほうだが、こういう探求心は強い方だと自覚している。しかし、気になったら解決するまで追い求める執着心が何かの役に立ったことは今までなかった。しかし、その執着心も思わぬカタチではあったが、自分史のなかでやっとスポットライトを浴びようとしていた。
わかった事実がいくつかある。私は《複数》いるようだった。そうだとしたら確かに説明のつくことばかりだった。数々の文献を当たり症例と照合したところ、自分の場合と似通っていた。自覚がないというところも共通点していて、しっかりとした名前がついていたことにはびっくりした。ビョウキだったのか。医者の代打で打席に立った名もなき医療事典に逆転サヨナラホームランを打たれた気分だった。こんなことが仮にビョウキだとしたら世の中にはもっとヤバイ名前のついたビョウニンがたくさんいるはずだった。
自分が名前のあるビョウキだと知った日の帰り道は、想像以上に明るいものだった。たったそれだけなのだ。自分が一人ではなく、複数いるとわかっただけで、気がとっても楽になった。うまく付き合えばいい、ただそれだけなのだ。一人一人の人格を愛でるようにしながら、いつもとは違った気持ちで焼酎の水割を自分自身に作ってやった。お前にはおれがいる、大丈夫だと言わんばかりに。
《複数の自我》というパンチの効いたワードに出会ってから私‘たち’の生活は一変した。図書館でやる作業が劇的に変わった。というより目的が変わったのだ。私は私自身を探ることをやめて、複数いる私たちを知ることに時間を費やした。この図書館で新たな自分を培養するようになったのだった。小さな芽も無視せずに大事に育てるようになった。
ビョウキだと? おれはビョウキじゃねぇ。知らないところで培養していただけだ。全部私で、全員で一つの身体を共有しているだけなのだ。図書館で気づく新しい私もいれば、気に入らない私にも出会うことはあった。好きな私は培養しては育て、納得いかない自分は細部まで知った上、家で埋葬した。私は完全に開き直り前を向いたのだった。
結局、有給休暇という特例措置に存分に甘えたのに、退職することになった。いつしか私は、‘私たち’になっていった。私の集合体ではなく、複数いる状態が自然になった。人と会話をすることが急激に減った。しかし、驚くべきは私生活に全くの影響が出なかったことだった。その分、自分自身のなかで複数の声が同時にこだまするようになった。
「今日は川沿いを散歩しようよ、特にボクは最近体調が悪い。」
「多数決は残酷だよ。いつもボクだけ否定されてばかりだ。」
「もう疲れた、そろそろ変わってくれないか。」
「そんなの、くだらない。自分のことだけ考えてればいいのさ。」
「順番に入口の見張りをしようよ、お城は交代で守らないと。」
図書館での培養と自宅での埋葬を繰り返したことで、様々な私の生死に出くわした。自己完結型の出会いと別れを繰り返したことで、人と会話したいという欲求は不思議と満たされた。《複数》いる私をまとめる中心的な私は存在などしていなかった。みんな身勝手で好き勝手し放題で、でも混乱などはしていなかった。複数を認めたことで、風通しがよくなった倉庫のように沈殿していた空気や埃、澱みは一層された。そして、床に溜まっていた何層にも重なる私は、化石のように毎日発見されていったのだった。
幻ではなかった。私にしか見えていない《私》は確かにいた。歪んでいるのは、私たち自身ではなく、私たちをビョウキ扱いする社会の方だった。
きっと良い風が吹くから、私は私たちでありたい。どう転がろうと、なるようになる、委ねよう。大切なのは、自分で決めることだった。
月日は流れ、図書館に通うのが面倒になり、結局図書館に住むことした。そこにいることが当たり前であってほしいと思った末の選択だった。初めて自分の生き場所を選択できたように感じた。しかし、働いているという自覚は全くなかった。ヨーダとあーだこーだ言いながら適当に仕事をしつつ、培養と埋葬を繰り返していくのだった。
図書館の隣のアパートを第二の基地としてから日は浅いが、夕方に焼酎を飲みながら図書館を出入りする人間を眺めるのが日課になった。この時間を好きな私がいるのだ。いいぞ、培養しろ。そう心のなかで呟く。暮れ行く空を見ながら、修理から戻ってきたミュージックプレイヤーでBob Dylanを聴くのだった。あいつの風に乗れば、止まることなく新しい自分自身に出会い続ける。彼の旋律は、私たち全員を満足させるものだった。完全に日が暮れたら、部屋に戻って今度は私たちで乾杯するのだった。大丈夫、おれたちは独りぼっちじゃない。
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