【小説】置手紙は捨てられない。~這い上がれ四日目~
第一話【小説】置手紙は捨てられない。
第二話【小説】置手紙は捨てられない。~どうってことない一日目~
第三話【小説】置手紙は捨てられない。~前のめりな旅は二日目~
第四話【小説】置手紙は捨てられない。~想像の裂け目に落ちた三日目~
(仰木の葛藤~想像の裂け目に落ちた三日目~について)
三日目を読み返したあと、急に気分が悪くなり数日間仰木は寝込んだのだった。何かの暗示だろうか。いや、ただの偶然だろう。それでいいのだ。いや、よくはない。
偶然手にした紙切れなのだ。もとの場所に戻すか、ビリビリに破いて捨ててしまえばいいのに、仰木にはそれができなかった。もう他人事では済まされなくなっており、解を得ずに、中途半端に放棄してしまうと今回のように病魔に襲われそうな気さえしていた。
三日目は全く理解できなかった。二日目のように身に覚えのある知り合いは登場せずに安心したが、明らかにテイストが変わった。写楽がこっちを振り向いたときなんぞ、ホラー小説でも読んでいるかのようにギクッとしてしまった。これは夢なのか、現実なのか、夢なのか、現実なのか。どちらにしてもこれが記し残されている時点でもう気味が悪い。
呪いの書のように誰かに向けて書いたわけでもなさそうだし、三日目は非日常要素が強すぎて、仰木は読むことに疲弊しきっていた。
夢と現実が混同した世界に住む心理学者はいったい何者だろう。心理学者本人が記録したものなのか。いや、心理学者を実験体として夢分析に励む別の心理学者が記録したとも考えられる。お面集団同様、この男も変な奴に違いないのだ。
一日目から三日目までの共通点はただ一つ、《男性の日常》が記されているという点のみだった。年齢も私とほとんど同じように思えるのも、不思議なことだった。デジャブとはまた違う感覚がある。私しか知らないような個人的な経験が書かれている文章を読まされるのだ。誰かに見られていたのか。誰かに語ったのか。
私だけの静かな日常だと思っていた扇子づくりライフは、何者かが投じた一石で大氾濫を起こしていた。もうそっとしておいてほしい。私を追跡しないでほしい。そう願うも叶わず、半ば中毒的に四日目へと踏み出してしまうのだった。
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這い上がれ四日目
太陽が真上から照りつけるなか、私は森のなかに設けられた遊歩道を歩いていた。何百回と妻と散歩をした道で、今更新しい発見などないような道だった。逆にその道に対する慣れが私にとっては心地よかったのだ。知らないことなど何一つない。そう、本当にすべてを知り尽くした道だった。どこにどんな花が植わっていて、いつ咲き、いつ散るかまで頭に入っている。ここにはあしながバチの巣があるから注意だ。夕方になるとここから降り注ぐ木漏れ日が美しい。毎日夕方六時ぴったりに木の下のベンチで休憩するのは、学生時代からの旧友である泰造と柴犬のサンタだった。鼻先回りが真っ白だからサンタでいいんでないかと十五年前に提案をしたのも私だった。
ところが今日は違った。知り尽くした道と私の間には目には視えない隔たりがあるように感じた。目をつぶっていても歩けるぐらい足に馴染んでいたはず道なのに、今日はいつもよりも勾配が激しく、道も心なしか歪んで見える。私の道に何が起きたのだろうと初めは訝しげに歩みを進めていたが、変化があったのは私の方だとほどなくして気が付いた。今日は不調な日なのか。確かに今朝から咳が止まらず、そのせいで手元が狂ってしまうことに嫌気がさし、気分転換しようと散歩に出かけたのだった。歩き始めて気づいた。今日はやはり不調だった。
顔色の悪い自分を気遣って、一緒に来ようとした娘を制したのは他でもない自分であった。道の歪みは次第に大きくなり、季節外れの蝶が視界のなかでひらひらと飛んでいた。あぁ、これはまずい。次第に呼吸が苦しくなり、そのまま誰もいない森のなかに仰向けに倒れ込んでしまった。今日は火曜日の二時半か…、ダメだ。泰造とサンタまで誰も通りやしない…。脱水症状だろうか、喉が異常に乾き、助けを予防にも呻き声すら出せないような状況だった。
その瞬間は何の前触れもなくやってきた。不意に口から何かの塊が抜け出て、偶然頭上を通過したカラスに乗り移った。上空を旋回するカラスになってしばらくして、あの塊は魂だったのかと悟った。しかし、魂がカラスに乗り移っただけで、カラスそのものになったわけではなかった。身体が全くいうことをきかない。助けを呼びに家に戻ろうとしても、気まぐれなのか、フワフワ羽ばたいてはカァカァと耳元で叫ぶだけでこやつ、何も聞いてはおらん。
カラスの姿になっても本体の自分を助けようとしている自分に可笑しくなってしまった。何をどうしたらよいか分からなくなっていた矢先、カラスは思い出したかのように急旋回し、枝に舞い降り下を見下ろした。そこには紛れもなく私がいた。仰向けに大口を開けて倒れている自分が見えた。滑稽というか、何とも言えない気持ちになった。これは幽体離脱でもなんでもない。私は今カラスで、枝の上に止まって私を見下ろしているのだ。
仰向けに倒れる私の頭からは煙が立ち上っていた。処理不可能な数式に混乱し壊れた機械のようだった。こうも人間ぽっくり逝ってしまうものなのかと思うと、いろいろと後悔が湧いてくる。さぁ、泰造とサンタの到着を待つしかないか…。
カラスの身体に魂が寄生してからというものの、妙に気分が落ち着く。自分が生きてきた世界との距離が生まれると同時に、自分がもといた場所を冷静に見つめ返していた。もっと広い世界に出ればよかったと後悔した。広い世界とは何かと聞かれたら説明できないが、もっと広い世界に足を向ければよかった。ひとつの遊歩道のなかに閉じこもった私の日常は、今思えば自己満足以外の何物でもなかった。カラスの目頭が熱くなることはなく、三度鳴くことしかできなかった。死に瀕したときに、走馬灯のように思い出されることがあると聞いたことがある。しかし、実際は、アルバムを一枚一枚めくるかのような余裕があった。
遠くで犬が吠える声が聞こえた。サンタか!…いや、この声はサンタではない。サンタにしては声が高い。私のにおいに気づいた野犬が襲撃にでも来たのだろうか。羽ばたいて確かめるまでもなく、それはカラスである私の視界に勢いよく走り込んできた。私は、遊歩道を知り尽くしてなどいなかった。
見たこともない犬と飼い主がどこからともなく現れた。犬にも飼い主にも見覚えはなかった。飼い主はまだ少年のようで、私の遊歩道アルバムのなかにその記憶はなかった。枝から見ているせいか、顔もよく見えなかった。少年と犬は私に気づき走り寄ってきた。少年は私の死体に怯えることなく事態を察したのか、すぐに踵を返すようにして犬とともに走り去っていった。助けを呼びにいったのだろうか。それとも怖くて逃げてしまったのか。十分足らずで少年は血相を変えた大人とともに戻ってきてくれた。
泰造とサンタに見られるよりかはましか、どこの誰かは知らんが、このまま運んでくれたら助かる…。生き長らえる希望というより、感謝の想いが小さな翼の下で大きく膨らみ始めていた。連れてきた大人は、私を担ぎ出そうとしていた。その顔がちらっと見えた。その大人はなんと行きつけの居酒屋の大将ではないか。彼の後ろ姿はアルバムのなかに深く刷り込まれている。カウンターのなかで魚を捌くあの後ろ姿で間違いなかった。あぁ、ツケ払い損ねている上に、なんたる無礼を。許してくれよ…。
私を背負う大将の隣を同じ歩幅で少年と犬が続いた。まだ私の身体と魂は離れていたままであった。カラスの姿のままでならできるかもしれない。少年の顔が見たい。そう強く念じると思い通りに翼が動いた。スーッと着地した先は、大将の数歩先だった。地面に降りると犬の大きさに怖気づきそうになったが、少年の顔が見えた。そこには若かりし頃の親父がいた。安心するかのようにカラスは静かに目を閉じた。
死んでなどいなかった。気を失っている間、魂がカラスと同化して浮遊していただけのようだった。カラスが目を閉じた瞬間、身体と魂がもとに戻ったようだった。その後、自分の身に何が起きたかはさっぱり覚えていないが、かなり心地の良い浮遊感のなかに自分はいた。
意識は、遠浅の海のなかにあった。自分が仮に死ぬのであれば、命あるものをこの世に置き去りにしていく側なのに、そこでは自分が置き去りにされていた。沖の方には複数の人間がゆっくりと沈みゆく太陽に向かって歩いていた。私はというと、膝丈ぐらいしかない遠浅のぬるい海のなかを、バシャバシャと音を立てながら必死に追いかけていた。置いてきぼりを食らった子供のように、泣きじゃくりながら追いかけていた。
時間の流れは恐ろしく早く、あっという間に太陽は沈み、辺りは真っ暗になった。太陽が沈むとほどなくして、もう一つの太陽が辺りを照らした。さっきよりも優しい光だった。それは太陽ではなく、太陽のように明るい月だった。
扇形の月が地平線から顔を出した。待てよ、少し止まって考えた。おかしな世界だ。月は地平線から顔を出すものでもない。見えないだけで日中も空にいる。太陽が沈む頃にはすでに頭上にあるような、そんな存在だったはずだ。引き返そう、この世界の月は眩しすぎる。直視できない。沖へ出向くのを諦めると、意識は戻っていった。
意識が戻ると、私は病院のベッドにいた。世間は美しい夜明けの真っ只中だった。助かった。大将と少年のおかげで海を渡らずに済んだのだった。身体は少しずつ輪郭を取り戻しているようだった。拳こそ作れなかったが、手に力が戻っていくのを感じた。美しい朝をあと何度見ることができるか、ではない。美しい朝をあと何度見たいか、なのだ。病室の窓から見える太陽をそっと握り返すことはできた。
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