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絶望とともに生きた歳月
74歳のときから字が思うように書けなくなった。相談役という閑職ではあったが、まだ、会社勤めをしていたので不便だった。74歳の1年間は、字が書けないどころではなく、次から次に不幸が降りかかってきた。最低の期間だった。
いろいろな不幸がまとめてやってきた。あれよ、あれよといううちだった。何よりも深刻だったのが、右目の光を失う恐怖だった。後日、セカンドオピニオンで網膜剥離と判明し、緊急手術でことなきを得たが、当時は少しずつ悪化していった。
会社近くにあった眼科のクリニックでは、原因がわからないといわれた。おしゃれをするのが生きがいのような医師だったから、かかったのが不運だったのかもしれない。強引にセカンドオピニオンを主張し、地元・町田市の病院への紹介状を書いてもらった。
それでも網膜剥離とわかるまでに2ヶ月か3ヶ月を要した。あれほど好きだったクルマも運転するのが怖い。失明も覚悟した。ずっと、両眼ともに1.2で生きてきただけに、片目とはいえ、失明の恐怖は尋常ではなかった。
文字が書けないのはパーキンソン病を疑った。たかだか120名ほどの会社に、自分より若いふたりのパーキンソン病の同僚がいたからである。
大学病院での過酷な検査の結果は、やはり、パーキンソン病だった。まもなく、75歳を迎え、会社は定年となった。60歳で定年だった同僚たちよりも15年も長く会社にいたわけだ。
定年間際の2年間は月水金曜日の出社であり、与えられた個室でなんの仕事もなく、無為に時間を過ごしていた。失明の恐怖があり、いずれ手足にふるえが出てくるパーキンソン病に暗澹の日々だった。
世間では新型コロナウィルスが世界的に跋扈をはじめていた。家に戻っても、老犬だけが迎えてくれる寂しい生活だった。字が書けないなどたいした支障ではなかった。
任期前の3ヶ月ほどは新型コロナのおかげで出社せずにすんだ。そんなさなか、網膜剥離で10日間の入院をした。病院食がひたすら美味だった。パーンソン病で手足がふるえるなどの症状が出る前の生き方をどうするかを考えるまたとない機会だった。
時間はたっぷりある。三度の食事を考える必要もなかった。しかし、10日間は無為に過ぎた。失明せずにすんだとの安堵だけが鮮明だった。世界的に猛威を振るっている感染症は深刻だった。罹患すれば、年齢的に自分は覚悟を決めねばならない。
そのときはそのときだ——開き直ざるをえないし、受け入れるしかない。字が書けない? それがなんだ。ほかにも大きな問題があった。退院し、社会復帰しても不幸はまだ追いかけてきた。
嵐に見舞われたら首をすくめ、やり過ごすしかない。かけがえのない相棒の犬にまでガンが見つかった。不運には慣れてしまい、淡々と受け入れた。文字が書けないのがどういうことなのかもすっかりわかっていた。
自分の名前が書けないのである。つまり、「サイン」ができないわけだ。市役所関連の施設では、職員のお嬢さんから、「ゆっくりでかまいませんよ」といってもらえるが、とにかく、手がかじかんだように動かないのである。絶望するしかなかった。