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本質に迫る眼
同じようなことを、去年、別のSNSに書いた。秋だったからまだ1年たっていない。それでもナスの花を見るとまた繰り返している。高齢(とし)のせいで思い出してしまうからだ。
親の意見と茄子(なすび)の花は千にひとつも無駄はない——という、有名な、古くからのことわざである。「無駄」を「仇(あだ)」とする事典もあるが、伝承であり、また、『安来節』をはじめさまざなな俗謡でもうたわれたそうだからいくつかのパターンがあるのだろう。
自分が父親の没年に近づくにつれ、意見されたいくつかを思い出し、さらにこのことわざを思い出してうなずいている。ほんとうに無駄がなかったな、と——。そこで、はたと考える。自分のせがれもまた、ぼくが死んだあと、「オヤジはいつも正しかったよな」と、このことわざを思い出してくれるだろうか。
ガミガミと文句ばかりをいってきたような気がする。ぼくだけではない。「怖くて、オヤジにはいえない」とおびえたジュニアがいた。彼のオヤジは、自分のオヤジを恐れつつも尊敬してやまなかった人である。
ぼくらの世代は、せがれたちに怖がられても、尊敬してはもらえない人間が多いようだ。口うるさいだけの怖いオヤジ——そんな父親像が、自分を含めて戦後世代のオヤジ像ではなかろうか。怖いけど、尊敬できる父親は、明治から大正の男たちで終わっているらしいと、少なからぬ劣等感を抱きつつ思ってしまう。
ぼくが尊敬してやまない祖父は、学はまったくない人だったが、ことあるごとに物ごとの本質をずばりと突いて、その度にぼくは、それこそ心胆を寒からしめていた。本質に迫るのに学歴や教養などは不要というわけだ。
ところで、ナスの花はほんとうに「千にひとつも無駄がない」のだろかと疑問を呈したところ、リタイア後、農事を楽しんでいる方から「たしかにナスの着果率はいい」とのアドバイスをいただいた。