
忘れない大地震への覚悟
去年、元日の午後、石川県の能登地方は大きな地震に見舞われた。その復興もまだ道なかばだし、われわれの記憶にも鮮明だというのに、チベット自治区で1月7日に大地震があった。被災者の方々には心からのお見舞いを申し上げる。
他国の不幸と思ってはいられない。東京直下型の大地震がくるとか、南海トラフ巨大地震に見舞われるとの予告もだんだん現実味を帯びてきた。ともかく、他人ごとではない。
現役時代の話だが、「われわれが生きている間は、巨大地震なんてこないよ」と語っていた、9歳年長のぼくの恩人の思いが多くの人々の思いでもあるだろう。だが、ぼくはいつも第二の関東大震災を覚悟している。
物心ついたころから、祖母や父から関東大震災の体験を聞かされてきた。あの日、祖母や父は、東京・日本橋で関東大震災を迎えた。二階の窓から外を見ると、豆腐を買いにいった伯父が豆腐の入った鍋を提げて、地震の揺れに足をとられ、右へいったり左へいったりしていたという。
地震で家は無事だったが、焼け出されてしまった。火の手に追われて逃げたのは皇居前だったという。父が尋常小学校3年生のときだったという。そのときのエピソードはたくさんある。なによりも、わが家が富裕層の仲間入りを果たせなかった最初の試練でもある。
このとき、芝浦の倉庫にはわが家が躍進する品々が詰まっていたそうだ。そして、後年の東京大空襲では、都内にあった数10軒の家作が一夜で灰燼に帰している。祖父が生きていたら、まともな精神状態ではいられなかったはずだ。
30歳のころの空襲はともかく、10歳になる直前の関東大震災がトラウマになった父は、死ぬまで大地震に対しての心構えとその備えを怠らなかった。父が死んだとき、「よかったね。二度目の大地震に遭わなくて」と、ぼくは心から思ったものだ。
父から、さんざんいわれていた「備え」は、現代には、もしかしたらそぐわないかもしれない。だが、いまの時代ではそれ以上の危機を覚悟しなくてはならないだろう。
東日本大震災のとき、大混乱に陥った東京を見ればよくわかる。あのときの経験をもとに、もし、会社で大地震に遭遇したらどうするかを想定し、ぼくはそれなりの準備もひそかにしている。
それというのも、祖母や父からさんざん関東大震災の話を聞いていたからだった。いかに“無駄死に”せずに生還を期すかであった。「われわれが生きている間は、大地震なんてこないよ」と、ぼくも思いたかったが、ともかくも自分なりのサバイバルを考えた。
そのときに会社にいたら、9歳年長の恩人とともに生き残るすべもあれこれ考えた。世が世なら、恩人が亡くなったとき、迷わず殉死したと思っているほどの恩をぼくは感じていた。真っ先に恩人のいる部屋へ飛び込んでいくつもりだった。
定年を迎える何日か前の休日、私物の荷物を回収しにクルマで会社へいったとき、山岳用のヘルメットをはじめ、地震用の備品を詰めたザックをテーブルの下から引っ張り出した。大地震への準備が杞憂に終わってよかったと心から思った。
あとは、こののち、生きて大地震に遭遇してしまうかどうかである。できたら、平穏なままの老後を最後まで送りたいものだ。しかし、こればかりはいくら願ってもかなうわけではない。常に覚悟だけは怠らずにいたい。